フェラーリによる、フェラーリのための「聖地巡礼」 488スパイダーと166インテルとともに:前編
公開 : 2017.03.05 00:30
ジョン・バーナードがフェラーリと天秤にかけたもの
彼には家族があり、そしてイタリアの陽の下へ住まいを移した際に身に降りかかるであろう、フェラーリ内部の政治的なしがらみについて嫌と言うほど聞かされていたからである。
それに対し、フェラーリの対応は異例だった。マラネロではなく、ギルフォードでのデザインを認めたのである。
バーナードの機転は、その作業場をギルフォード・テクニカル・オフィス、略してGTOと銘打ったことだ。結局、ここからチャンピオン・マシンは生まれなかったが、彼の設計した640をベースにして生み出された641(と改良型の641/2)は、1990年のシーズンを通してマクラーレンと渡り合った。惜しくもタイトルを逃したが、その決着は鈴鹿のスタート直後についた。
1コーナーで、アラン・プロストの641/2とアイルトン・セナのMP4/5Bが接触しリタイヤしてセナの優勝が決まった、あの有名なレースだ。
フェラーリの技術的なアップデートを果たしたのはバーナードだ。彼は1989年シーズンの終盤にチームを離れ、1992年には籍を戻すものの、1997年にはフェラーリとふたたび袂を分かつ。
1996年にミハエル・シューマッハを迎え、マラネロは2000年代前半に黄金期を迎えるが、その礎を築いたのは間違いなくバーナードだった。
なお、GTOは1989年のバーナード離脱時にマクラーレンへ売却され、その後にマーレーの手に渡り、今日でも画期的なデザインの数々を世に送り出している。