残骸から蘇ったロータス・エリート

公開 : 2017.06.11 00:10

火災の残骸から蘇った1台のロータス・エリートがあります。およそ9ヶ月の月日を経てレストレーションされたクルマは、その後走行僅か320km。新車と言っても良いコンディションが保たれていました。

驚くほど美しいFRP製モノコック・ボディのロータス・エリート。ロータスは、エリートのおかげで1950年代に一躍有名になった。グレーム・ハーストが、新たに組み立てられたエリートの乗り心地を試す。

レーシング・メーカーが作った美しいクーペ

1957年10月。英国国際モーターショーの会場で話題の新開発スポーツカーの姿があった。性能の低い鋳鉄製オーバー・ヘッドバルブ・エンジンを搭載したいかにも古臭いクルマ達が周囲を埋め尽くすように並ぶ中、この新車は何だ? そこには、オールアロイのオーバー・ヘッド・カムシャフト・エンジン、独立懸架式リア・サスペンション、そして最先端のFRP製モノコック構造を備えた驚くほど美しい小型クーペが存在した。ロータスと、フォードやヴォクゾールとでは、香ばしいエスプレッソを淹れるデミタスと、建設労働者が紅茶を入れておくマグカップほどに違いがある。その上、製造は他ならぬロータスだ。細身の公道向けレーシングカーを市販し、流行に敏感なドライバーの心を掴んだことで評判の若い急成長企業だった。

ひとりの熱烈なロータス愛好家が、出火したオリジナルのエリートの残骸と、その横に並ぶ組立キットを見つけた結果、このクルマは復活を遂げることになる。そのキットには、エリートが発売されて間もない頃にエリートのオーナーとして有名だったトニー・ベイツ氏が工場の鋳型から製作した交換用のシェルも含まれていた。長年の間に痛んだオリジナルを所有するオーナーたちのために、ベイツ氏が1990年代に製作した十数個のひとつだった。ベイツ氏は、エリートをキット形態でモーターショーに展示していた時代におけるロータス創業者コーリン・チャプマンの宣伝手法をまね、シェルと、手に入りにくい大量の点数の未使用部品とをセットで販売した。

このキットは、2000年代前半、ドニントン・パーク・サーキットで開かれるクラブ・ロータス・ショーで売りに出た。1963年に後継車のエランが誕生して以来、新車のエリートの完全な「キット」は姿を消していたので、直ちに買い手がついた。開封されずに何度か転売された後、ついに3年前、以前ロータス・エリーゼを所有していたロータス愛好家イアン・イングラム氏の手に渡った。そこで、イングラム氏は、生来の機械工作好きから、トールマン・モータースポーツと組み、エリートの残骸と合わせて、新車のエリートを組み立てることにした。それは世界初のFRP製モノコック・クーペが英国国際モーターショーでデビューしてから53年後のことだった。

グリップ力が高く、フラットなコーナリング特性。

FRPモノコックが最大の特徴

その当時、ロータス・エリートは話題のクルマだった。ロータスを創業してから5年しか経過していなかったものの、チャプマンの独創性は、エンジニアとしての「軽量化」哲学や型破りな起業家精神に支えられていた。クローズド・コクピットで、モノコック・ボディまで備えたスポーツカーは、ロータスがそれまで歩んできたコースからはずれるものであったが、画期的な性能は、前途有望に思えた。車重わずか658kg。心臓部のエンジンは実績のあるコヴェントリー・クライマックス製の1216cc FEWで、出力は76psを生み出す。

エンジンとフロント・サスペンションを支持し、接着剤によってボディの内壁と固定されるクレードル、ウィンドウを支える湾曲したフレーム、そしてジャッキ・アップのためのポイント。それ以外には、ボディの形状を保持するためにいかなる鉄製品も使われていない。そのアイデアに、人々は不安を感じたが、それにしてもなんと優美な外見であったことか。その美しいフォルムは、かなりの程度までピーター・カーワン・テイラーという人物の功績だった。当時は無名の会計士に過ぎなかったものの、希有なデザイン・センスに恵まれたテイラーは、チャプマンやロン・ヒックマンの支援を受け、空気力学の権威、フランク・コスティンやジョン・フレイリングと協力してエリートのスタイルを考案した。

魅力的な外見のおかげで、エリートの構造に疑いを差し挟む者はいなかった。第一、チャプマン自身が、批判を少しも怖れるような男ではなかった。チャプマンとしては、レース活動の資金を調達するため、一刻も早く一人前のスポーツカー・メーカーとして認められたかったものの、それには、後継車エランの登場を待つ必要があった。

カーワン・テイラーのスタイリングは見た目が美しいだけでなく、cd値が0.29だ。

華々しいデビュー

マーガレット王女を含むモーターショーの観客は、エリートのデビューにたいへんな関心を寄せた。王女が、エリートの座席に座りたいと所望されたことは有名な話だ。だが、ロックが壊れ、針金で開けなくてはならなかったため、チャプマンは、このエピソードを宣伝に利用するチャンスをフイにした。ロータスの部品庫から急いで持ってきた部品を慌てて組み立てたことも、こうしたハプニングが生じた一因だった。

ショーの後、モーター・ジャーナリストたちが試乗し、FRP製ボディに包まれた先進的なメカニズムを実際に体験したため、引き続き大きな注目を集めた。ただし、1960年1月まではチャプマンが本格的なテストを許さなかったため、あくまでも簡単な試乗にもとづいたインプレッションだった。消火ポンプ用に開発されたことで知られるコヴェントリー・クライマックス製エンジンには定評があり、ロータスの他のスポーツカーにも搭載された。しかし、独立懸架リア・サスペンションを市販車に採用するのは新しい試みだった。

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