ジョン・サーティース、83歳で逝去 2輪〜ロータス、フェラーリ、ホンダの時代を振り返る
公開 : 2017.03.18 16:30 更新 : 2017.06.01 00:26
2輪と4輪でワールド・チャンピオンに輝いたジョン・サーティースは、3月10日、83歳で逝去しました。1956年以降2輪〜ホンダに至るまでのキャリアを振り返り、亡き彼を偲びます。姉妹ウェブサイト、CLASSIC & SPORTSCARより。
2輪からレースの世界へ
ロンドンのオートバイ・ディーラーの息子として生まれたサーティースは、2輪レーサーとしてそのレーシング・キャリアをスタートした。
1956年にノートンからMVアグスタに移籍し、その1956年と、1958年から1960年までの4回、WGP500クラスのチャンピオンに輝いた。
途轍もない速さゆえ、ついたあだ名は「figlio del vento」、つまり「風の子」という意味だった。
26歳の時にサーティースは4輪レースに転向する。
ロータスでいきなり表彰台に
1960年のF1第7戦、母国イギリス・グランプリで予選11番手からスタートし、ジャック・ブラバムに次いで2位でフィニッシュした。マシンはロータス。これが、4輪での初の表彰台となった。
1963年にフェラーリに移籍したサーティースは、その年のドイツGPでF1初優勝を飾る。
そして翌64年の最終戦メキシコGPでは、グラハム・ヒルに遅れること5ポイント、そしてジム・クラークに9ポイント差を付けた総合2位につけていた。
このレース、クラークは最終ラップでオイル漏れのためリタイア。また、ヒルはサーティースのチームメイト、ロレンツォ・バンディーニとの接触で後退。ダン・ガーニー、バンディーニ、そしてサーティースというオーダーだったが、フェラーリはバンディーニに対してスローダウンしてサーティースを先に行かせるように指示。これによって、サーティースが2位でフィニッシュし、年間のポイントでヒルを1ポイント上回り、シリーズ・チャンピオンを獲得した。
サーティースは1965年のフル・シーズンをフェラーリで過ごした後、1966年シーズンの途中、第3戦からクーパーに移籍した。
理由は、フェラーリの監督、エウジェニオ・ドラゴーニとル・マンの出場を巡って揉めた結果だった。このシーズン、彼はジャック・ブラバムに次ぐシリーズ・チャンピオンシップ2位という結果だった。
第1期のホンダF1に参画
翌1967年シーズンから3年間は第1期のホンダF1に参画。RA273、RA300、RA301とマシンを乗り継いだ。ローラと共同開発を行ったホンドーラというあだ名を持ったRA300のデビュー戦となった1967年のイタリア・グランプリで、ホンダに2勝目となる勝利をプレゼントした。
1969年はBRMで戦った後、1970年第7戦からは自らの名を冠したサーティースというF1コンストラクターを設立し、1978年までシーズンを戦った。このサーティースのF1では、1972年まで現役ドライバーとしてステアリングを握った。
レースの世界から足を洗った後も、2輪および4輪のディーラーを経営する傍ら、ヒストリック・カー・レース・イベントなどにも数多く姿を見せた。
彼の不幸は、2009年、この年から始まったF2選手権の第4戦、ブランズハッチで、クラッシュしたマシンから外れたタイヤの直撃を受けた息子、ヘンリー・サーティースが僅か18歳の若さでこの世を去ったことだ。
サーティースは、息子ヘンリーの名前をとったヘンリー・サーティース財団を設立し、チャリティ事業も行っていた。