【最初にして孤高】BMW Z1 妥協を排した未来 市販されたコンセプトモデル

公開 : 2019.12.07 18:10  更新 : 2021.10.09 22:42

BMW Z1にスポットをあてます。ドアが開いたまま走ることができる姿に衝撃を受けた人もおおいでしょう。開発の背景を見つめるとともに、あらためてZ1がどんなクルマかを探ります。年々、評価が高まりつつあります。

最初にして孤高のZモデル

モーターショーに出展される浮世離れしたスタイルの車輛は、コンセプトモデルと呼ばれている。

その役目は開発中のテクノロジーをお披露目することや顧客の反応を見たりするためのもの。

プロトタイプがテスト走行しているプレスフォト。亜鉛メッキのシャシーは生産型と違って軽め穴がない。リアオーバーハングを短く切り詰めるため燃料タンクはリアアクスルの真上にある。翼断面形状のマフラーでダウンフォースを得ようとする考えに驚愕。
プロトタイプがテスト走行しているプレスフォト。亜鉛メッキのシャシーは生産型と違って軽め穴がない。リアオーバーハングを短く切り詰めるため燃料タンクはリアアクスルの真上にある。翼断面形状のマフラーでダウンフォースを得ようとする考えに驚愕。

それらはしかし、実際に販売の予定がないからこそ、デザイナーやエンジニアたちが、一切の妥協を排して腕を振るった偉大な佳作でもある。

だが80年代の後半から90年代初めの、現代の眼から見れば「狂った時代」には、夢が現実となって市販されることもあった。

BMWのモデルは大雑把に区別すれば標準モデルかMモデルかに分けられる。だがそのどちらにも含まれない稀有な1台が1987年のフランクフルトショーで発表されている。

ドアを開けたまま走ることができる風変わりなロードスターはZ1と命名されていた。

開発を手掛けたのはBMWグループ内の技術開発部門、BMWテヒニーク社。彼らはグループ内でZT(Zukunft=未来、Technik=技術の意と思われる)と呼ばれていた。

つまりZ1という車名の頭文字は彼らの社内呼称にちなんだものであり、後のZ3やZ4とはオープン2シーターという形式的なつながりしか持たない実験的なモデルだったのである。

エンジニアの理想がかたちに

BMWテヒニーク社でZ1の開発を主導したのはドクター・ウルリッヒ・ベッツだった。

彼はZ1の完成を待たずポルシェに移籍し993を開発した後、アストン マーティンを率いた。一方スタイリングは、やはりポルシェに移籍し初代ボクスターのデザインで高い評価を得たハーム・ラガーイである。

ボディパネルを全て外したところ。ボンネットやリアリッドはFRP、フェンダーやバンパーは弾力性に富んだ樹脂製。開発者は40分でボディパネルの着せ替えができると宣言したが、実際には5時間以上もかかるらしい。完全なフロントミッドシップに注目。
ボディパネルを全て外したところ。ボンネットやリアリッドはFRP、フェンダーやバンパーは弾力性に富んだ樹脂製。開発者は40分でボディパネルの着せ替えができると宣言したが、実際には5時間以上もかかるらしい。完全なフロントミッドシップに注目。

BMW Z1の説明としてよく用いられるのは、ドアを開けたままでも走行可能なこと。そして後のE36 3シリーズで本格デビューを果たすマルチリンク方式のリアサスペンションを装備していることである。

だが実際には車体の全てが未来的な技術としてZ1を形成していた。

シャシーは鋼板溶接によるバスタブ形状のモノコックで、空力的な形状のフロアは複合素材が用いられていた。モーターで垂直に上下するドアは高いサイドシルに対する解決策として設置されている。

ボディパネルは復元性の高いプラスティックとFRPという2種類の樹脂製で、容易に色替えを楽しむことができると宣伝されていた。

ロングノーズのボンネット下には325i用のSOHC直6と5速MTが収められていたが、通常の3シリーズのパワートレインと違うのはギアボックスとデフケースがトルクチューブで完全に固定されている点だった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    吉田拓生

    Takuo Yoshida

    1972年生まれ。編集部員を経てモータリングライターとして独立。新旧あらゆるクルマの評価が得意。MGBとMGミジェット(レーシング)が趣味車。フィアット・パンダ4x4/メルセデスBクラスがアシグルマ。森に棲み、畑を耕し蜜蜂の世話をし、薪を割るカントリーライフの実践者でもあるため、農道のポルシェ(スバル・サンバー・トラック)を溺愛。

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事