オンロード×四輪駆動:アウディUrクワトロ キッカケは全速力の逃亡:オペル・モンツァ FF (1)

公開 : 2024.01.21 17:45

四輪駆動の速さを証明したUrクワトロ 極めて希少な同時期のモンツァ FF オフローダーではない四駆クーペの魅力を、英国編集部が振り返る

冷戦と関わりを持つ2台の四駆クーペ

熾烈な競争が、技術的な飛躍や発明をもたらすことは間違いない。戦争へ進展し、凶暴な戦車や化学兵器の誕生へ至る場合もあるが。まだ東と西にドイツが別れていた時代に勃発した「冷戦」は、今回ご紹介する有能な2台を導き出した。

四輪駆動の先駆者、ジープも、設計のキッカケは第二次世界大戦。現在のSUVブームへ繋がるとは、当時は誰も想像しなかったはず。

オペル・モンツァ FF(1981〜1986年/欧州仕様)
オペル・モンツァ FF(1981〜1986年/欧州仕様)

英国のトラクターで成功したハリー・ファーガソン氏率いる技術者、フレディ・ディクソン氏とトニー・ロルト氏による四輪駆動システムを採用したのが、1969年のジェンセンFF。オフローダーではない初の四輪駆動モデルとして、熱い支持者を生み出した。

しかし、1970年代後半にジェンセン・モーターズは倒産。四輪駆動システムの販売権利は、英国の技術企業、GKN社が買収し、その後、1980年発売のAMCイーグルへ採用された。

一方、ロルトはファーガソン・フォーミュラ(FF)・デベロップメント社を創業。少量生産の権利を保持した。

オペル・モンツァ FF誕生を導いたのは、BRIXMISと呼ばれる、冷戦時代の英国の使節団。東ドイツでソ連軍のスパイ活動を実行した部隊は、オフロードでのカーチェイスを頻繁に繰り広げていた。

1946年から東ドイツ・ポツダムに駐留し、表向きには、ソ連の占領状態を監督する任務を負っていた。ところが実際は、軍事産業に関する情報も収集されていた。BRIXMISの不審な動きに対し、ソ連側は武力で対応。全速力での逃亡が、常套手段だった。

大改造なしに四輪駆動化できたモンツァ

部隊は当初、ランドローバーレンジローバーを利用していたが、ジェンセンFFの技術へ注目。1970年代に入り、オペルの4ドアサルーン、アドミラルの四輪駆動版が特注された。

1980年には、オペル・セネターを四輪駆動化。セネター FFとして、合計67台が作られている。いずれもレンジローバーより信頼性が高く、燃費に優れ、市街地の景色へ簡単に紛れることができた。オフロードの走破性も、充分といえた。

オペル・モンツァ FF(1981〜1986年/欧州仕様)
オペル・モンツァ FF(1981〜1986年/欧州仕様)

その結果として、1978年発売の2ドアクーペ、オペル・モンツァにも四輪駆動版が作られた。「自然な流れでしょうね」。とトニーの息子で、1980年代のFFデベロップメント社を率いたスチュアート・ロルト氏は振り返る。

「モンツァの方がセクシーなクルマだという意見は、少なくありませんでした。父はセネターに乗っていましたが、私はモンツァ。個人ユーザーにとって、よりカッコいいクルマに映っていたでしょう」

今回ご登場願った、XOW 5Vのナンバーで登録されたモンツァ FFは、当時のデモ車両。スチュアート本人が乗っていた車両、そのものだ。

モンツァのサスペンションは、セネターと同じく、フロントがマクファーソン・ストラット式で、リアがセミトレーリングアーム式。大きな改造なしにフロントデフを追加でき、四輪駆動化が可能だった。

記事に関わった人々

  • 執筆

    チャーリー・カルダーウッド

    Charlie Calderwood

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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