「走りはドイツ車」な英国車 飛行機から自動車へ ブリストル400 ドロップヘッド・クーペ(1)

公開 : 2024.01.27 17:45

事業の多様化で進出した自動車生産

BA社は、航空機メーカーとして第二次大戦前から英国最大規模を誇り、開戦後は需要へ応えるように事業を拡大していった。双発の戦闘機、ブリストル・ボーファイターと、同じく双発の爆撃機、ブリガンドを大量に生産。最盛期には7万人の労働者を抱えた。

しかし同社のゼネラルマネージャー、ホワイトは、終戦後の舵取りに早くから悩んでいた。民間航空機への転換だけでは、従業員の維持は難しいと考えていた。彼は多様性を好み、自動車に強い関心を抱いていた。

ブリストル400 ドロップヘッド・クーペ・プロトタイプ(1947年/欧州仕様)
ブリストル400 ドロップヘッド・クーペ・プロトタイプ(1947年/欧州仕様)

開戦して間もない1941年から、アルヴィスやERA、アストンマーティンといったブランドへ、彼は買収協議に関する手簡を送っている。実りはなかったようだが。

終戦を迎えた1945年、レジナルド・バードン・スミス氏とともに、ホワイトは共同最高経営責任者へ就任。事業の多様化は、緊急性を帯びていた。

既に、商用の貨物機に加えて、ヘリコプターとプレハブ建築の生産へ進出していた。だが、自動車部門も必要だという考えは変わらなかったらしい。

幸運にも社内には、自動車の生産と販売で10年以上のキャリアを持つ、ドン・オールディントン氏という人物がいた。航空機の生産部門で、検査官を努めていた。

遡ること1929年、兄のハロルド・オールディントン氏は、AFN社の常務取締役へ就任。スポーツカー・ブランド、フレイザー・ナッシュの経営へ関わるようになっていた。

手を組んだブリストルとフレイザー・ナッシュ

しかし、1934年のレース、クープ・インターナショナーレ・デ・ザルプで、BMWのロードスターにフレイザー・ナッシュは惨敗。ハロルドはドイツ・ミュンヘンの工場へ向かい、英国におけるBMWの販売・製造に関する独占的な契約を取り付けた。

グレートブリテン島へ戻ると、独自モデルの生産をやめ、フレイザー・ナッシュ-BMWというブランドを設立。英国仕様として僅かな改良を施し、第二次大戦で生産が途絶えるまでに、600台以上を販売した。終戦後も、その数台が残っていた。

ブリストル400 ドロップヘッド・クーペ・プロトタイプ(1947年/欧州仕様)
ブリストル400 ドロップヘッド・クーペ・プロトタイプ(1947年/欧州仕様)

ホワイトは、これにチャンスを見出した。ブリストルの上層部による協議を経て、BMWの技術を導入することが決定。1945年後半までに、BA社はAFN社の株式の過半数を取得し、協力体制が組まれた。

両社の上層部はミュンヘンのBMW工場を訪れ、亡命を望んでいた技術者、フリッツ・フィードラー氏を招聘。残されていた設計図や大量の部品も、輸入された。

かくして、ブリストル400の設計がスタート。スタイリングは、1930年代後半に量産されていたBMWの3モデルを参考に、ブリストルのデザイナーが担当。エンジンにトランスミッション、ボディやシャシーなど、大部分を自社製造する準備が進められた。

専門的な技術が必要なアイテムは、ロッキード社やルーカス社など、英国のサプライヤーを頼った。ドイツ・メーカーが含まれなかったことは、注目に値するだろう。

この続きは、ブリストル400 ドロップヘッド・クーペ(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    エマ・ウッドコック

    Emma Woodcock

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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