ビートルズやボブ・ディランも選んだサルーン オースチン・シアライン ヴァンデンプラ・プリンセス(1)

公開 : 2024.01.28 17:45

ビートルズやボブ・ディランも選んだ上級サルーン、シアラインとプリンセス 適度な風格を求めた人に理想的 英国編集部が2台のクラシックをご紹介

ザ・ビートルズやボブ・ディランも選んだ

ロールス・ロイスファントムVは、今でもスタイリッシュで紳士的。対して、4.0Lエンジンのオースチン・シアラインとヴァンデンプラ・プリンセスは、ちょっと垢抜けない派手さのような雰囲気を漂わせる。

1940年代後半から20年間も作られたこの2台は、オーナー自ら運転するフラッグシップ・サルーンとして誕生。中古車は華やかなウェディングカーとして活躍したが、オフロードでのストックカーレースへ投じられ、無惨な最期を遂げた例も多い。

ブラックとアイボリーのオースチン・シアライン A125と、ブラックとシルバーのヴァンデンプラ・プリンセス A135 4リッター・リムジン
ブラックとアイボリーのオースチン・シアライン A125と、ブラックとシルバーのヴァンデンプラ・プリンセス A135 4リッター・リムジン

ザ・ビートルズは、世界的な人気を掴み始めた初期に、プリンセスへ乗っていた。ボブ・ディラン氏も、英国でのライブツアーの移動手段に選んだ。とある著名政治家がプロポーズした際に乗っていたのも、ロールス・ロイスではなくプリンセスだった。

どんなシーンにも対応する、強い印象のボディが与えられ、英国王室は1952年に2台を調達。生産終了を迎える1968年にも、2台が納入されている。

それ以外にも、王室では5台が所有されていた。1974年にアン王女が誘拐未遂事件へ巻き込まれた際に乗っていたのも、プリンセスだった。

オースチン・モーター社を創業した、レナード・ロード氏が抱いた野望がこのモデルの始まり。強力な6気筒エンジンを積んだモデルで、アメリカ市場を戦いたいと考えていたようだ。

プアマンズ・ベントレーと揶揄されたオースチン

グレートブリテン島中部のロングブリッジに拠点を構えたオースチンは、その頃、大型サルーン作りに長けていた。1930年代には18や20というモデルをリリース。英国のRAC規格で28馬力をうたう6気筒エンジンも投入され、一定の成功を残していた。

プアマンズ・ベントレーと揶揄されることもあった。ロードもそんな評価を耳にしていたが、意欲的な姿勢は変わらなかった。1946年には、コーチビルド・ボディを手掛けるヴァンデンプラ社を買収。彼の挑戦心には、一層火が付いたといっていい。

オースチン・シアライン A125(1948〜1954年/英国仕様)
オースチン・シアライン A125(1948〜1954年/英国仕様)

そこで生まれたのが、当時1278ポンドと高額だったA110型のシアライン(DS1)と、A120型のプリンセス(DS2)。前者は、ロングブリッジの工場でシャシーからボディまでを製造。後者は、ヴァンデンプラ社がボディを担当した。

ちなみに、プリンセスというモデル名は、その頃話題を集めていた若き王族、プリンセス・エリザベスとプリンセス・マーガレットにちなんで決められた。

シアラインのスタイリングを手掛けたのは、ディック・ブルジ氏。アルゼンチン出身で、ランチアでの経験を持ち、1929年に渡英した。シャープなラインと複雑なリア回りが特長で、48Wと明るいルーカス社製P100ヘッドライトが前方を照らす。

シャシーはボックスセクションで、ホイールベースは3023mm。長大なルーフパネルは、一節では、当時の英国車として最大の一体型プレス部品だったとか。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

オースチン・シアライン ヴァンデンプラ・プリンセスの前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事