「フランス的」と反発された流線型 エンビリコス・ベントレー(1) シャシーは4 1/4リッター
公開 : 2024.02.04 17:45
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ポーランが情熱を向けた自動車のボディ
初代オーナーにちなんで、エンビリコス・ベントレーと呼ばれる、1938年式のクーペ。アンドレ・マリス・エンビリコス氏の資金力で、英仏の合作として生み出された印象的なモデルだが、筆者は「ポーラン・ベントレー」と称する方が正しいと思う。
確かに、特別なボディの対価を支払ったのはエンビリコスだ。彼は金融業と海運業で成功した、富豪のギリシア人だった。だが、空気力学へいち早く注目していたフランス人技術者、ジョルジュ・ポーラン氏の名を冠した方が、特長を端的に表すだろう。
第二次大戦中、ポーランはナチス政権に対するレジスタンス勢力へ参加。英国が提案した逃亡計画を受け入れず、ドイツの秘密警察、ゲシュタポで潜伏活動を展開した。しかし、目的が知られ逮捕。フランス・パリの南部で銃殺されてしまう。40歳だった。
歯科技工士を本業としたポーランだったが、幼い頃から描画を好んだ。機械的なデザインに強い関心を寄せ、リトラクタブル・ハードトップの構造を考え、特許を取得している。水上飛行機も設計した。
とりわけ情熱を向けたのが、自動車のボディ。流線型の美しい姿を描き出し、ベントレーへ施すことになった。
フランスのブガッティやドラージュ、ドイツのアドラー、イタリアのアルファ・ロメオなどは、1930年代に入ると滑らかなボディの量産車を提供していた。だが、第二次大戦前の英国では、空気抵抗の少ない流線型に対する理解や技術開発が遅れていた。
フランス的な技術として反発された流線型
保守的なブランドに含まれたのが、ベントレー。「サイレント・スポーツカー」と呼ばれる高性能モデルを提供していたが、経営者は伝統主義を重んじた。切り立った大きなラジエーターこそ、ブランドの象徴だと考えていた。
そんなベントレーと、ロールス・ロイスをフランスに輸入していたのが、ウォルター・スリーター氏。時代性に欠けるスタイリングへ、不満を抱いていた。
デザイナーのジャン・ブガッティ氏だけでなく、コーチビルダーのフィゴーニ・エ・ファラッシ社、ルトゥルヌール・エ・マルシャン社などがフランスでは台頭。華やかで洗練されたボディが、高速道路での存在感を強めていった。
エンビリコス・ベントレー開発への転機となったのが、1936年4月。ベントレーの技術者が、グレートブリテン島南部のブルックランズ・サーキットを訪れた時のことだった。
高速で疾走する流線型のサルーン、奇抜なデュボネ・ドルフィンを2人は目撃。空気力学に対する関心を強め、研究予算を準備するよう上層部へ打診する。しかし、フランス的な技術だとして反発されたようだ。
その後、このアイデアはスリーターが引き継ぐ。既に高級車をコレクションしていたエンビリコスは、流線型ボディを開発したいという彼の考えに賛同。デザイナーには、ポーランが適任だという考えも一致した。
この時、ポーランはドラージュD8-120という流線型のグランドツアラーを手掛けていた。1937年のパリ・モーターショーに向けて、コーチビルダーのポフトゥー社での製作は大詰めにあった。