「フランス的」と反発された流線型 エンビリコス・ベントレー(1) シャシーは4 1/4リッター

公開 : 2024.02.04 17:45

シャシーは4 1/4リッター アクリルで軽量化

新たなベントレーの計画を引き受けたポーランは、歯医者の仕事を終えた夜間に、スタイリングを検討。自宅の机で、流線型のドローイングが描かれた。

1937年11月には、風洞実験用の縮尺モデルが完成。1938年1月に仕上がった原寸大の木製モデルは、エンビリコスだけでなくベントレーの上層部にも感銘を与えた。

エンビリコス・ベントレー(4 1/4リッター・シャシー/1938年/英国仕様)
エンビリコス・ベントレー(4 1/4リッター・シャシー/1938年/英国仕様)

必要な保証金がベントレーへ支払われ、メーターはkm/hで指定され、実作がスタート。1938年3月に、4 1/4リッターのシャシーはポフトゥー社へ搬入。ボディは4か月後に完成し、フランスの路上でテスト走行が始まった。

エンビリコスが最終的に支払った金額は、当時で5万9210フラン。特注のコーチビルド・ボディ、2台分の金額だったという。

かくしてエンビリコス・ベントレーは、高速なロードカーとして開発された。キャビンのフロアには毛足の長いカーペットが敷かれ、豪奢なレザー・シートが据えられた。

車重は1565kg。軽いアクリル製ウインドウなどを採用し、通常のベントレー4 1/4リッターより159kgも軽量に仕上がっていた。

ベントレーの技術者、EW.ハイブス氏とWA.ロバートソン氏は、4.25Lの直列6気筒エンジンを改良。圧縮比を8:1へ高め、大型のSUキャブレターを載せ、最高出力を126psから142psへ引き上げた。

ショックアブソーバーとブレーキもアップグレード。トランスミッションには、ギア比が2.87:1のオーバードライブ・トップギアが組まれた。

1949年のル・マン24時間レースへ参戦

完成したエンビリコス・ベントレーは最高速記録へ挑むことになり、フランスのオートドロム・ドゥ・リナ・モンレリへ。ドライバーとしての評価も高かったスリーターがステアリングホイールを握り、非公式だが、172.2km/hの記録を残している。

この能力を知らしめるべく、さらに彼はドイツへ向かい、アウトバーンを全開走行。メルセデス・ベンツが樹立した、平均128.7km/hの記録更新へ挑むものの、天候が悪化し中断された。だが、180km/hで運転するスリーターの様子は写真に残っている。

エンビリコス・ベントレー(4 1/4リッター・シャシー/1938年/英国仕様)
エンビリコス・ベントレー(4 1/4リッター・シャシー/1938年/英国仕様)

その後、エンビリコス・ベントレーは英国へ運ばれ、ジョージ・エイストン氏のドライブでブルックランズ・サーキットを走行。路面状態の優れないオーバルコースを周回し、平均183.4km/hを記録している。

しかしエンビリコスは、流線型のベントレーを1年足らずで売却してしまう。速度記録などに駆り出された期間が長かった一方で、オーナー本人は殆ど運転できず、嫌気が差したようだ。

1939年7月22日に購入したのが、レーシングチームのオーナーでドライバーの、HSF.ヘイ氏。直後に第二次世界大戦が勃発し、倉庫へ隠されるが、ブラックアウトされた姿はしばしば英国内で目撃されている。

1949年にル・マン24時間レースが復活すると、ヘイはエンビリコス・ベントレーで参戦。ジャーナリストのトミー・ウィズダム氏をコ・ドライバーに迎え、サルト・サーキットでの長丁場へ挑んだ。

この続きは、エンビリコス・ベントレー(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ミック・ウォルシュ

    Mick Walsh

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

エンビリコス・ベントレーの前後関係

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