破壊されたプロトタイプ ベントレーMkV コーニッシュ(1) 神秘性を醸し出す曲線美

公開 : 2024.02.24 17:45

歯科医師が描き出した曲線美のスタイリング

コーニッシュのボディは、ベントレーが正式に開発を推進。ロールス・ロイスの広報部門は、「特別なドライバーに適した、実用的な4シーター」だと紹介文をまとめている。

ベントレーのダービー工場に努めていた、イヴァン・エヴァーンデン氏が、歯科医師のポーランと協力してスタイリングを担当。流行の先端にあった、流線型のフォルムが描き出された。

ベントレーMkV コーニッシュ・リクリエーション(1939年式の再現モデル)
ベントレーMkV コーニッシュ・リクリエーション(1939年式の再現モデル)

2分割でV字型にレイアウトされたフロントガラスや、フェアリングの付いたヘッドライト、スパッツで覆われたリアタイヤ、カウリングの付いたラジエーターグリルなど、多くの特徴が与えられた。塗装色には、インペリアル・マルーンが選ばれた。

コーニッシュ・ボディの製作には、約5か月を要した。1939年6月にグレートブリテン島中部のダービーへ届けられると、ブルックランズ・サーキットでテスト走行。0-400mダッシュを19.8秒、最高速度は178km/hに達することが確認された。

完成したコーニッシュは、第二次大戦が始まる数か月前にGRA 270のナンバーで登録され、フランスとドイツ、イタリアを巡る耐久テストへ出発。50日間で走行距離を1万919kmへ伸ばした。

フランス南部のアルプス山脈では、ステルヴィオ峠とドロミティ峠を完走。ドイツのアウトバーンでは、160km/h以上の速度で15分走行したところ、タイヤのトレッド面が剥がれたという。2本のスペアタイヤが、役に立っている。

2度の事故に巻き込まれ、空爆で破壊

ところが、この耐久テストでは2度も事故に巻き込まれている。1度目は、1939年7月9日にバスが絡んだもの。2度目は8月で、道路へ侵入してきた別の車両を避けたことで、路肩の用水路へ突っ込んだものだった。

この事故で、運転席側のボディ側面とルーフを損傷。致命的なダメージではなかったようだが、14-BV型シャシーとコーニッシュ・ボディを分離し、修理が必要だと判断された。シャシーは英国のダービーへ、ボディはフランス中部のシャトールーへ運ばれた。

ベントレーMkV コーニッシュ・プロトタイプ(1939年式/英国仕様)
ベントレーMkV コーニッシュ・プロトタイプ(1939年式/英国仕様)

その後、1939年9月3日にドイツが宣戦布告。互いに連絡が取れない状況になり、1940年5月にコーニッシュのカギだけがダービーの工場へ届けられた。

添付されていた英国ロイヤル・オートモビル・クラブの書面には、ボディは空爆で破壊された可能性が高いと記されていた。ベントレー・コーニッシュは、不幸の歴史とともにフランスで葬り去られた。

当時の姿を確認できたのは、数枚の写真のみ。ロールス・ロイスは1970年代に2ドアクーペへコーニッシュという名を復活させるが、オリジナルの塗装色すら、正確な情報は残っていなかったという。

第二次大戦後のベントレー Rタイプ・コンチネンタルが、後年にクラシックカーとして価値を高めると、失われたコーニッシュに対する関心も上昇。WO.ベントレー記念財団を率いるケン・リー氏を筆頭とするマニアは、再現を夢見るようになっていった。

この続きは、ベントレーMkV コーニッシュ(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ベントレーMkV コーニッシュの前後関係

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