「革新」のかたまり タトラ77 奇抜すぎた高級車、乗り心地最高 名車を振り返る
公開 : 2024.02.12 11:05
1930年代の「最先端」を走っていたのがタトラ77だ。流線型ボディ、ドライサンプの空冷V8エンジン、リアエンジン・リア駆動、広くて豪華なインテリア。当時は路面追従性や乗り心地も「抜群」と評価された。
時代の最先端を走っていたクルマ
1920年代から1930年代にかけて、自動車には多くの革新的技術が登場した。
独立懸架サスペンションによる乗り心地の改善、リアエンジン搭載による後輪トラクションの向上と室内パッケージング、空冷エンジンの構造簡素化、流線形ボディによる空気抵抗の低減、より均等な重量配分によるきめ細やかな動力性能の実現などである。
そして、これらすべてを最初に具現化したのが、タトラ77だ。
タトラ77は、サイドレールが不要なバックボーン・フレームをベースに、チェコのエンジニア、ハンス・レドヴィンカ氏が息子のエーリッヒ氏と同僚のエーリッヒ・ユベラッカー氏の協力を得て開発。地球上のどのクルマとも「似ても似つかぬ」ものとなった。
3.0L V8エンジンをリアアクスルのすぐ後ろに搭載し、コンパクトかつ軽量なパッケージを実現。さらに、V8は半球状の燃焼室、ドライサンプ、オーバーヘッドバルブを備えており、バルブはプッシュロッドではなく、中央のカムシャフトから伸びる長いロッカーアームによって開くというユニークな構造である。
風洞実験によって開発されたサルーンボディの抗力係数は、驚異のCd値0.25(当時の平均は0.7前後)と謳われた。ちなみに、ここで使われた風洞は飛行船メーカーのツェッペリン社のものである。デザイナーのポール・ジャレイ氏が同社の元社員であり、空気力学の知識を自動車業界に応用したのだ。
1935年に発表された改良型77aでは、排気量アップの3.4L V8エンジンを搭載するだけでなく、空力性能もさらに向上し、Cd値0.22を実現したとされる。さらに、フロントエンド中央には3つ目(!)のヘッドライトが装備された。
インテリアは非常に豪華で、後部座席に大人3人がゆったりと座れる広さを確保。一部のモデルでは運転席を中央に配置し、前部座席にもゆとりを持たせていた。
高く評価された乗り心地
こうした設計は、タトラにとって新しい挑戦であった。
プロトタイプのV570を見てみると、30年代のもう1つのアイコン、フォルクスワーゲン・ビートルによく似ている。誰が先駆者で、誰が模倣者だったのか? タトラの大ファンの1人がビートルの開発を命じたアドルフ・ヒトラーだったのは偶然ではないだろう……。
フェルディナント・ポルシェ博士は後にこう語っている。「わたしが(レドヴィンカ氏を)覗き見ることもあれば、彼がわたしを覗き見ることもあった」
最終的に、1965年にフォルクスワーゲンがタトラに賠償金を支払うという形で落ち着いた。
さて、タトラ77の走りはどのようなものだったのか? 1935年、本誌AUTOCARの記者が試乗し、次のように評している。
「運転していて非常に面白かった。車重(約1700kg)とエンジンの大きさを考えると、スピードの出もよく、勾配の変化にも過敏ではなかった」
「乗り心地は素晴らしく快適で、甌穴やマンホールの多い坂道をハイスピードで下るというデモ走行は、控えめに言っても驚異的だった。乗っていた4人の誰もが、普通のクルマなら(あの路面を)半分のスピードでも走る勇気はなかっただろう。しかし、車内ではほとんど衝撃を感じなかった」
戦時中、ナチス将校は徴用したタトラを運転することを禁じられており、これはテールハッピーによる死亡事故が相次いだためという俗説がある。しかし、これはおそらく作り話であろう。
英国の航空機メーカー、ブリストル社のエンジン設計者であるロイ・フェッデン卿も、1942年にタトラ77に試乗したときの回想録で、路面追従性とワインディンロードでの速度維持能力は抜群だったと語っている。
1936年に発表されたタトラ87はさらに改善され、1950年まで大量に生産された。