こう見えて実は「パトカー」 MGA 1600 デイムラーSP250(1) 路上のわかりやすい抑止力
公開 : 2024.02.25 17:45
警察の厚意で当時の装備品を再実装
1958年のガーディアン紙による取材で、セント・ジョンストン巡査長は次のように答えている。「自動車のドライバーは、パトカーの拡声システムによって、正しい運転をするようアドバイスを受けます」
それでも、中央分離帯を越えてUターンする無謀なドライバーは、少なくなかった。実際のところ、拡声システムの音量はさほど大きくなかった。
英国車の性能が向上する中、MGAは1962年に生産が終了。高速隊の後継車として、ランカシャー州警察は次期モデルのMGBを指定した。
1964年5月29日に、592 KTBのナンバーのMGAは売却。10年ほど所在が不明になるが、1975年にウッドヘッド氏という人物が購入している。その後、所有者が変わりつつ、ボディはグリーン、ブルーへと塗り替えられた。
1994年、デビッド・コックス氏が入手すると、パトカー本来のホワイトで再塗装。ランカシャー州警察の厚意により、当時の装備品の再実装も叶った。
現オーナーのサイモンが入手したのは、2003年12月。くたびれた見た目を回復するべく、2013年にレストアされている。近年は、クラシックカー・イベントのグッドウッド・リバイバルでコース監視任務を担当しており、マニアの間では知られた存在だ。
「前オーナーが、グッドウッド・リバイバルでの監視を頼まれたようです。それから25年間、ずっと継続しています」。サイモンが、誇らしそうに話す。
手頃な価格と不足ない速さ 路上の抑止力
他方、ブラックのデイムラーSP250は、1938年にロンドン郊外にオープンした「エース・カフェ」の常連だった。第二次大戦を挟んで、英国では自動車やバイクが急増。レザージャケットを着た多くのライダーがカフェに集ったが、交通事故も多発していた。
1959年には、12万8614名のライダーが事故で負傷。1680名の命が失われた。1961年のデイリー・ミラー紙は「自殺クラブ」という鮮烈なタイトルを付け、状況の悪化を報じている。
ロッカーズやトンアップ・ボーイズと呼ばれた若いライダーたちは、そんな報道にお構いなしだったが、ロンドン警視庁は事故対策へ動いた。それでも、ヘルメットは1973年まで義務化されず、酷い年には毎週3名のライダーが死亡事故に巻き込まれたのだが。
視覚的にわかりやすい、路上の抑止力として高速隊へ選ばれたのが、デイムラーSP250。比較的手頃な価格と、当時のパトカーで一般的だったウーズレー6/99を凌駕する速さが組み合わされ、最良な選択肢だと判断されたようだ。
SP250の発表は、1959年のアメリカ。ニューヨーク・モーターショーで、2シーターのスポーツカーがお披露目された。一癖あるスタイリングは物議を醸したが、技術者のエドワード・ターナー氏が設計した、2.5L V8エンジンがマニアの注目を集めた。
本格的な生産は、1960年に開始。最高速度は、201km/hが主張された。
1961年4月には、調整式ステアリングコラムとバンパーを標準装備した、Bスペック仕様が導入。ハードコーナリング時にボディが変形し、ドアが開いてしまうのを防ぐ、高剛性なシャシーも与えられた。
この続きは、MGA 1600 デイムラーSP250(2)にて。