たった1台の「ベルトーネ」スパイダー アルファ・ロメオ・ジュリエッタ(1) 美貌は大胆コンセプト譲り

公開 : 2024.03.10 17:45

成功が導いたジュリエッタスパイダー

美しいロードスターが誕生したきっかけは、数年前にアルファ・ロメオが企画した投資家向けの抽選会。目玉賞品として発売前のジュリエッタが設定されたものの、モノコックボディのクーペは開発が間に合わなかった。

そこで頼られたのが、伝統的な手法でボディを短時間に成形できるコーチビルダー。フォルクスワーゲンポルシェでキャリアを積み、アルファ・ロメオへ出向していたフィンメッカニカ社の技術者、ルドルフ・フルスカ氏は、ベルトーネ社へ声をかけた。

アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダー(プロトタイプ/1955年)
アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダー(プロトタイプ/1955年)

最初のプロトタイプは、アルファ・ロメオのジュゼッペ・スカルナティ氏によって製作されるが、その後、ギア社のマリオ・ボアノ氏とベルトーネ社のスカリオーネへ再デザインを打診。最終的に量産モデルとして仕上げたのが、後者だった。

クーペのジュリエッタ・スプリントが発表されたのは、1954年のイタリア・トリノ・モーターショー。当初のルドルフは少量生産を想定していたものの、市場の反響は大きく、最終的には2万4000台以上がラインオフされるに至った。

この成功を強く牽引したのが、欧州製のスポーツカーを北米市場へ輸入していたマックス・ホフマン氏。イタリアでは、コンバーチブルよりクーペの方が人気だったが、アメリカ人の嗜好は逆転していた。

特に気候の良い西海岸では、オープンカーの支持率が高かった。マックスとルドルフはともにオーストリア出身ということもあり、親交が深く、ジュリエッタ・スパイダー・プロジェクトへ強い追い風が吹いたのだ。

選ばれなかったベルトーネの提案

アルファ・ロメオは、ピニンファリーナ社とベルトーネ社へジュリエッタ用プラットフォームを提供。スパイダーの提案を依頼した。ちなみに、量産車と連番になるシャシー番号、1495.00001から1495.00016までは、プロトタイプに充てがわれている。

シャシー番号の1495.00001と1495.00003を受け取ったのが、ピニンファリーナ社。2台作られたプロトタイプの内、1台目は失われているが、2台目は現存している。

アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダー(プロトタイプ/1955年)
アルファ・ロメオ・ジュリエッタ・ベルトーネ・スパイダー(プロトタイプ/1955年)

ベルトーネ社へ引き渡されたプラットフォームは、1495.00002と1495.00004。同じく、2台のスパイダーが作られた。その最初のプロトタイプが、今回ご紹介する車両そのもの。

傾斜したリアには、一体化されたテールライト。その両脇に高いフィンがそびえる。完成後はホフマンが引き取っているが、ピニンファリーナ社のスタイリングより高く評価していたという情報が残っている。

2台目はテールライトとフィンの処理が異なり、スタイリングは簡素化されていた。恐らく、量産化を意識した違いだろう。これは現在、カーコレクターのコッラード・ロプレスト氏が所蔵している。

1956年には、3台目のプロトタイプも製作された。こちらは、クーペのジュリエッタ・スプリントのルーフを切り取ったような、コンバーチブル・ボディをまとっていた。

1台目のプロトタイプは、1955年11月に自動車雑誌のロード&トラック誌へ記事が掲載。3500ドルでの発売が予告された。ところが、ホフマンの希望は最終的には通らなかった。アルファ・ロメオが選んだのは、ピニンファリーナ社の案だった。

この続きは、アルファ・ロメオ・ジュリエッタ(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆 / 撮影

    セルジュ・コーディ

    Serge Cordey

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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