自分の「首を絞めた」コダワリ品質 ランチア・アウレリア B10 ブリストル405(1) ピークは1950年代

公開 : 2024.04.06 17:45

2.0Lの量産車として、最も高価なモデルの1つ

400のフロントノーズには、BMW譲りのキドニーグリルが並んでいたが、405では一新。ノースアメリカンF-86など、1950年代のジェット戦闘機の吸気口を思わせる、大きなフロントグリルが与えられた。

シャシーはボックスセクション。リアはリジッドアクスルだったが、入念な設計で最適化されていた。ステアリングラックは、正確な操舵を叶えるラック&ピニオン式。後期型では、先進的なディスクブレーキがフロントに装備された。

ランチア・アウレリア B10(1950〜1952年/欧州仕様)
ランチア・アウレリア B10(1950〜1952年/欧州仕様)

今回ご登場願ったシルバーの405は、1954年式。英国映画「ドクター・イン・ザ・ハウス」などの映画プロデューサーとして活躍した、ベティ・ボックス氏が初代オーナーだった1台だ。

当時の英国価格は、3188ポンド。比較的排気量の小さい2.0Lの量産車としては、最も高価なモデルの一択だったことは間違いない。

他方、アウレリアも高価ではあったが、後期型の4ドアサルーン、B12でも約2400ポンド。初期型のB10は、殆ど英国には輸入されなかった。また、英国人にとってアウレリアといえば、クーペのB20 GTの方が一般的だろう。こちらも、魅力的なモデルだ。

ランチアは1922年のラムダから、シャシーとボディが一体となったモノコック構造を先駆けて導入。技術者のヴィットリオ・ヤーノ氏が設計したアウレリアも、もちろんそれを受け継いでいた。

4ドアサルーンの特徴といえたのが、センターピラーのない大きな開口部。リアドアはリアヒンジで開閉し、乗降性を高めている。

V6エンジンで20種類が展開されたアウレリア

やや平凡にも見える、美しいスタイリングは、カロッツェリアのピニンファリーナ社との共同。細かな改良を加えつつ、1955年まで生産は続けられた。

かつてのランチアに共通するが、アウレリア初期のB10は右ハンドルが標準。B10 Sでは、左ハンドルをオプションで指定可能だった。また、V6エンジンにトランスアクスルというパッケージングで、20車種が展開されている。

ランチア・アウレリア B10(1950〜1952年/欧州仕様)
ランチア・アウレリア B10(1950〜1952年/欧州仕様)

1950年から1953年に提供された、アウレリア B10とB10 Sに載ったのは、1754ccのV型6気筒。バンク角は60度で、最高出力56ps、最高速度131km/hが主張された。

排気量の大きい、1991ccのV型6気筒を搭載したアウレリア B21とB21 Sが登場したのは、1951年。最高出力71psを発揮し、高いギア比と相まって、最高速度は144km/hに届いた。

1952年には、アウレリア B22とB22 Sも登場。ツインチョーク・ウェーバーキャブレターを載せ、ハイカムを2.0Lエンジンに組み、最高出力は91psへ上昇。最高速度は159psへ引き上げられた。

4ドアサルーンの後期型、2.3LエンジンのB12が登場したのは1954年。B20 GTと同じく、ブランド・マニアからはベスト・アウレリアだとみなされている。

今回ご登場願った、ブラックのアウレリアは初期型のB10。ランチアのコレクターである、ミトカ・エンゲブレッツェン氏が所有する1台だ。

この続きは、ランチア・アウレリア B10 ブリストル405(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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