フェラーリのカリスマ、ルカ・ディ・モンテゼーモロが成し遂げたこと 【第10回】フェラーリへの愛

公開 : 2024.06.15 08:05

フェラーリ時代を振り返る

2022年のフィオラーノにてモンテゼーモロは、自身のフェラーリにおけるキャリアについて、こう語っている。

「人生の天職を得ることですら難しいのに、ましてや成功を遂げるということは、よほどの幸運にでも恵まれない限りはあり得ないことです。国際弁護士として仕事を始めようとしていた私は、フェラーリから突然のオファーをもらって、そこへ飛び込みました」

2014年10月7日にお別れの会見がフィオラーノのロジスティックセンターで開かれ、2000人ものスタッフが参加した。モンテゼーモロは、23年間の謝意を皆に伝えた。
2014年10月7日にお別れの会見がフィオラーノのロジスティックセンターで開かれ、2000人ものスタッフが参加した。モンテゼーモロは、23年間の謝意を皆に伝えた。    Ferrari S.p.A

「そのときは上手くやっていく目算があったワケではまったくありませんでした。しかし、それは今となっては良い判断であったと思います。フェラーリの素晴らしい人々から多くを学ぶことができたからです」と。

結果的に、彼の人生の多くを賭けることになったフェラーリ。その結末は彼にとって厳しいものであったかもしれない。しかし、彼にとって良くも悪くもフェラーリが人生そのものであって、そこに全精力を賭けたことは最善のことであったと捉えているという。

そんな彼の一途な本気さを、一緒に働いた仲間達はよく理解していた。だから、あるときは非情なほど厳しい彼の仕事への取り組みにも、皆はついて来たのではないだろうか。

一昨年フィオラーノにおける彼と故マウロ・フォルギエーリとの対談の会場に響きわたっていた、共に働いた仲間達の絞り出すような叫びが今も鮮明に私の耳に残っている。
「戻ってきてくれ、アヴォカート!」と。 

注)Avocato=アヴォカート、弁護士を意味し、モンテゼーモロは敬意をもってそう呼ばれた。

記事に関わった人々

  • 執筆 / 撮影

    越湖信一

    Shinichi Ekko

    イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。
  • 編集

    上野和秀

    Kazuhide Ueno

    1955年生まれ。気が付けば干支6ラップ目に突入。ネコ・パブリッシングでスクーデリア編集長を務め、のちにカー・マガジン編集委員を担当。現在はフリーランスのモーター・ジャーナリスト/エディター。1950〜60年代のクラシック・フェラーリとアバルトが得意。個人的にもアバルトを常にガレージに収め、現在はフィアット・アバルトOT1300/124で遊んでいる。

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