フェラーリのカリスマ、ルカ・ディ・モンテゼーモロが成し遂げたこと 【第3回】マラネッロの改革
公開 : 2024.04.27 08:05
ピニンファリーナの変化
ピニンファリーナからは単にスタイリングだけではなく、エンジニアリング的要件や、ひいてはニューモデルに関わるコンセプトなどを提案するように変化してきた。たとえばF355のローンチではセルジオ・ピニンファリーナが自ら壇上にあがり「私達は第5の面をデザインしました」とぶち上げた。4面に加えて床面を「第5の面」と表現し、アンダーフロアの空力を制御し、十分なダウンフォースを確保した点をF355の「テクニカルポイント」としたのだ。
そしてある時はピニンファリーナがフェラーリにニューモデル全体の提案を行い、それがモーターショーでコンセプトモデルとして発表されるような時代ともなってきた。ピニンファリーナ創立50周年を記念してフェラーリへ商品化を提案したのが4ドアモデル、ピニンであった。コンセプトモデルだけで終わってしまったが、企画自体がピニンファリーナからフェラーリへの提案であった。
高まる両者の軋轢
しかし時を経るに従って、このコラボレーションにも不協和音が生ずるようになってきた。フェラーリにもしっかりとした開発部門が整備されてきたし、かつてはコンペティション・モデルのボディだけを作っていたスカリエッティはフェラーリ傘下となり、348系ではロボットによる自動溶接マシンまでが導入されるようになった。一方、ピニンファリーナはスタイリング開発をもちろん独占したいし、ボディ製造の受注も減らしたくない。そんな中で両者の軋轢は高まっていった。
注:当時、8気筒系のボディ製造はフェラーリ自ら(傘下のスカリエッティ)行っていた。テスタロッサなどの12気筒系はピニンファリーナにてボディ製造がおこなわれていたが、それも少しずつフィアット系のボディ製造部門へと移行しつつあった。
モンテゼーモロの決断
それならピニンファリーナとの縁を切って全て内製化すればいいではないか? しかしそれは簡単ではなかった。優秀なデザイナーがピニンファリーナに集結していたのも事実であるし、セルジオ・ピニンファリーナはフェラーリの株主であり取締役でもあった。そう、エンツォの時代から続く様々なしがらみがそこにあったのだ。
モンテゼーモロはこの関係にメスを入れることを決意した。商品企画をヘッドクオーターにおける最重要事項として、自らの手中に置いた。幸いフィアットのマネージメントを行ってきた中で、イタルデザイン率いるジョルジェット・ジウジアーロと彼は深い関係にあったし、彼の才能も高く買っていた。だからピニンファリーナ一本でなく、積極的に外部の才能へと声を掛けてコンペを行った。
製造コストの点でも、社内組織であるスカリエッティでボディを作った方が有利なことは目に見えている。フェラーリのエンジニアのトップであるフェリーザを従え、モンテゼーモロは改革に乗り出していった。
続きは2024年5月4日(土)公開予定の「【第4回】ピニンファリーナのコントロール」にて。