フェラーリのカリスマ、ルカ・ディ・モンテゼーモロが成し遂げたこと 【第4回】ピニンファリーナのコントロール

公開 : 2024.05.04 08:05

550マラネッロが誕生のきっかけは

モンテゼーモロは348系の商品力を向上させたF355や、8気筒系を抜本的に改善する新規プロジェクト(のちの360モデナ)を立ち上げると共に、新しいフラッグシップたる12気筒モデルのリサーチに入っていた。

そんなタイミングでピニンファリーナからひとつの提案があがってきた。それは365GTS/4以来ラインナップから消えていたFRのスパイダーを復活させるというものだった。

北米の顧客からゆったりとドライブを楽しめるラグジュアリーモデルを求めるニーズが高いことにモンテゼーモロはは気づいていた。そこで12気筒のベルリネッタをフロントエンジン・レイアウトに回帰し誕生したのが550マラネッロだった。
北米の顧客からゆったりとドライブを楽しめるラグジュアリーモデルを求めるニーズが高いことにモンテゼーモロはは気づいていた。そこで12気筒のベルリネッタをフロントエンジン・レイアウトに回帰し誕生したのが550マラネッロだった。    Ferrari S.p.A

456GTのシャシーを短縮し、フロントにV8エンジンを載せ、オープントップモデルのニーズが高い北米をターゲットにしよう、というニッチなモデル提案だ。いわば、カジュアルなデイトナ・スパイダーというイメージであった。

このアイデアにモンテゼーモロは食いついた。北米の顧客からはゆったりとドライブを楽しめるラグジュアリーモデルを求めるニーズが高いことに彼は気づいていた。テスタロッサ系ではキャビンも狭いし、ラゲッジスペースも極めて小さい。しかし、これをFRにすればレイアウトの自由度も高まり、そういったニーズの対応できる。

カジュアルなV8スパイダーの提案は、フェラーリの12気筒フラッグシップモデル、それもクローズドのクーペボディへとモンテゼーモロのアタマの中で大きく姿を変えていった。

デイトナというフェラーリの重要なアイコンへのオマージュ。それはブランディング的な観点からしてもフラッグシップにふさわしい。そもそもフェラーリのフラッグシップを欲する層に、尖ったミッドシップのモデルがふさわしいのか、という問題意識もモンテゼーモロは持っていた。

ターゲットである富裕層がレースドライバー並みのドライビングスキルを持っていることは稀有であろう。そんな彼らにとっては御しやすく、快適なドライブを楽しめるということの方が重要であり、そう考えるならFRがベストではないかと彼は考えたのだ。

モンテゼーモロはピニンファリーナに彼のアイデアを伝え、「コードネームF133」プロジェクト(のちの550マラネッロ)はスタートした。そう、そのころにはフェラーリとピニンファリーナの力関係も大きく変化していた。アニエッリ家をバックに持つ若きカリスマの押しは充分に強く、フェラーリ社内の意思決定もまとめることができた。

一方、セルジオ・ピニンファリーナは高齢で、以前のような強い存在感を醸し出すことは難しかった。ピニンファリーナは、フェラーリ=モンテゼーモロの意見に翻弄されることになっていたのだ。

記事に関わった人々

  • 執筆 / 撮影

    越湖信一

    Shinichi Ekko

    イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。
  • 編集

    上野和秀

    Kazuhide Ueno

    1955年生まれ。気が付けば干支6ラップ目に突入。ネコ・パブリッシングでスクーデリア編集長を務め、のちにカー・マガジン編集委員を担当。現在はフリーランスのモーター・ジャーナリスト/エディター。1950〜60年代のクラシック・フェラーリとアバルトが得意。個人的にもアバルトを常にガレージに収め、現在はフィアット・アバルトOT1300/124で遊んでいる。

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