フェラーリのカリスマ、ルカ・ディ・モンテゼーモロが成し遂げたこと 【第4回】ピニンファリーナのコントロール

公開 : 2024.05.04 08:05

長き蜜月の終焉

時は流れ、8気筒の458イタリア、初のAWDモデルであるFF、そしてフェラーリ・スタイリングセンターとピニンファリーナの協業で完成したと発表された2012年のF12ベルリネッタを最後に、フェラーリとピニンファリーナのコラボレーションは表向き終了した。

もはや各自動車メーカーは、自前のデザインセンターを持つのが常識となっていた。以前にも増して、空力やエンジンのクーリングなどのエンジニアリングとスタイリングが密接にからみ合っていたからだ。

2012年2月に登場したF12ベルリネッタは、ピニンファリーナにとって最後に係ったフェラーリとなった。フェラーリ・スタイリングセンターとの協業で完成したと発表され、以降のモデルはフェラーリ内製デザインとなった。
2012年2月に登場したF12ベルリネッタは、ピニンファリーナにとって最後に係ったフェラーリとなった。フェラーリ・スタイリングセンターとの協業で完成したと発表され、以降のモデルはフェラーリ内製デザインとなった。    Ferrari S.p.A

2012年に送り出されたF12ベルリネッタを最後に、フェラーリのデザイン開発はフラヴィオ・マンツォーニ率いるフェラーリ・デザインセンターで内製化されることになった。ここに長きにわたったフェラーリとピニンファリーナ両社の蜜月は正式に終焉を迎えた。

モンテゼーモロの人情味から誕生したセルジオ

しかしエンツォと深い関係のあったセルジオ、そしてピニンファリーナ家へ彼が敬意を払わなかったというワケではなかった。そのあたりのスマートかつ、人間味ある対応が彼の持ち味であった。2013年にセルジオが鬼籍に入り、それと同時にフェラーリとピニンファリーナ両社の関係は60周年を迎えていた。

その当時は既に両社の専属デザインスタジオという関係性は終っていた。セルジオの息子であるパオロ・ピニンファリーナは、モンテゼーモロに「セルジオへ捧げる1台をフェラーリバッジと共に世に出したい」と提案した。この当時の関係性からは「あり得ない」オファーに対して、モンテゼーモロはイエスと即答したという。

2013年にセルジオが亡くなり、同時にフェラーリとピニンファリーナの関係は60周年を迎えた。セルジオの息子であるパオロは、モンテゼーモロに「セルジオへ捧げる1台をフェラーリとして世に出したい」と提案し誕生したのがセルジオだった。
2013年にセルジオが亡くなり、同時にフェラーリとピニンファリーナの関係は60周年を迎えた。セルジオの息子であるパオロは、モンテゼーモロに「セルジオへ捧げる1台をフェラーリとして世に出したい」と提案し誕生したのがセルジオだった。    Ferrari S.p.A

これが458イタリアをベースとして6台が生産されたフェラーリ・セルジオ誕生の裏話だ。懇意にしていたジウジアーロの存在をちらつかせながら、ビジネス的な駆け引きを迫る彼の手腕とは違った人情味あふれる一面を見せてくれたのであった。

続きは2024年5月11日(土)公開予定の「【第5回】ラインナップの刷新と技術革新」にて。

記事に関わった人々

  • 執筆 / 撮影

    越湖信一

    Shinichi Ekko

    イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。
  • 編集

    上野和秀

    Kazuhide Ueno

    1955年生まれ。気が付けば干支6ラップ目に突入。ネコ・パブリッシングでスクーデリア編集長を務め、のちにカー・マガジン編集委員を担当。現在はフリーランスのモーター・ジャーナリスト/エディター。1950〜60年代のクラシック・フェラーリとアバルトが得意。個人的にもアバルトを常にガレージに収め、現在はフィアット・アバルトOT1300/124で遊んでいる。

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