フェラーリのカリスマ、ルカ・ディ・モンテゼーモロが成し遂げたこと 【第5回】ラインナップの刷新と技術革新

公開 : 2024.05.11 08:05

アルミ製シャシー量産技術の導入

フォルギエーリが指摘したポイントは、また違った視点からのモノであった。つまりモノコックボディを製造しようとすると、高くてコストが掛かる専用の金型を製作しなくてはならない。これは大量生産には向いているが、フェラーリのような少量生産メーカーにとっては大きな財務上の負担となる。代々コンペティションモデル流のクルマ作りに従ってきたフェラーリにとって、必ずしもふさわしいものではないというのが彼の指摘だったのだ。

モンテゼーモロもこのフォルギエーリの示唆を充分に理解し、旧態依然としたスティールシャシーからの脱却へ手を付けることになった。フェラーリの製造拠点であるスカリエッティ・ファクトリーにアルミ製シャシー製造技術を導入することが決断された。

モンテゼーモロはフォルギエーリの示唆を理解し、スカリエッティ・ファクトリーにアルミ製シャシー製造ラインの導入を決意する。アルミ構造材はアルコア社と連携し、アルミ製スペースフレームの量産が可能となった。
モンテゼーモロはフォルギエーリの示唆を理解し、スカリエッティ・ファクトリーにアルミ製シャシー製造ラインの導入を決意する。アルミ構造材はアルコア社と連携し、アルミ製スペースフレームの量産が可能となった。    Ferrari S.p.A

そこにはアルコア社の技術が投入され、マラネッロR&Dセンターとの連携でアルミ製スペースフレームの量産が可能となった。さらには社内R&Dセンターがスタイリング開発もリードし、ピニンファリーナ任せであったプロセスは大きな変化を遂げた。

F355後継モデルである360モデナは、モンテゼーモロ主導による製品力アップに向けた改革の集大成となった。アルミ押し出し成型材を主とした軽量かつ高剛性のスペースフレームが新設計され、スカリエッティ・ファクトリーの製造ラインが稼働をはじめた。スタイリング開発ではフェラーリのスタッフがプロセスをコントロールし、モンテゼーモロ本人もしばしばモデリングを行っていたトリノのピニンファリーナを訪問した。

最後にリデザインされた360モデナ

360モデナのスタイリング開発最終段階ではひとつの事件があったようだ。当時、モンテゼーモロはフェラーリのロードカーにおけるキャビンの快適性を改善すべく、大いにこだわっていた。今までのように大柄な顧客が、狭い室内を我慢しながらでもフェラーリを楽しんでくれるという時代ではなくなったと判断したのだ。

1990年にデビューしたホンダ NSXは日本においては妥協した設計と揶揄される節もあったが、世界のハイパフォーマンスカー業界ではまさに「NSXショック」到来であった。当時ラグジュアリー・スポーツカーで、ここまでドライバー及びパッセンジャーの快適性を求めるという考え方は皆無であって、各ブランドはこぞってNSXを新しいトレンドとして研究を重ねた。

フェラーリで初めてあるアルミ製スペースフレームを採用したのは、1999年にデビューした360モデナだった。モンテゼーモロはピニンファリーナが提示した室内が狭いデザインに激怒して、車高を50mm高く設計し直すように強い指示を出す。
フェラーリで初めてあるアルミ製スペースフレームを採用したのは、1999年にデビューした360モデナだった。モンテゼーモロはピニンファリーナが提示した室内が狭いデザインに激怒して、車高を50mm高く設計し直すように強い指示を出す。    Ferrari S.p.A

この360モデナもその点において強く影響を受けていたといっても過言ではない。話を戻そう。モンテゼーモロは360モデナに充分な室内高と幅を確保することを要件として出していたのだが、ピニンファリーナのデザイナーたちはプロポーションにこだわり、車高だけは低く抑えたまま開発は進めていたのだ。

最終モデリングが完成しようとしていた頃、例によって専用ヘリで飛んできたモンテゼーモロはその判断に激怒したという。360モデナに関してはジウジアーロからも提案を受けていたから、ピニンファリーナへの発注をキャンセルするとほのめかしたことは想像に難くない。モンテゼーモロは基本的なアーキテクチャが既に決定した後の段階ではあったが、車高を50mm高く設計し直すよう、強い指示を出したのだった。

当時、ピニンファリーナ開発センターのトップであったロレンツォ・ラマチョッティは、ピニンファリーナとしてのこだわりを捨てなくてはならないことを理解した。スタイリング確定のタイムリミットを過ぎていることを考慮し、かなり大胆なソリューションを実行した。

そう、普通ならゼロからスタイリングをやり直すレベルの変更なのだが、彼は50mmほどベルトライン(サイドウィンドー下端のライン)から下に厚みを加えたというのだ。確かにこの変更により、360モデナのスタイリングからシャープさが失われているという玄人筋の意見もある意味で正しいかもしれない。

しかし、北米を中心に広いキャビンの使い勝手がよいスポーティなクーペとして高い人気を博し、歴代8気筒モデルの中でも大ヒット作となったのだ。

モンテゼーモロはそのぐらいプロダクトの詳細に関与し、ピニンファリーナへ臆すことなく指示を出した。これは彼が口先だけでなく、本気でフェラーリの改革に取り組んでいたことを証明するエピソードであろう。

続きは2024年5月18日(土)公開予定の「【第6回】フェラーリの「改善」とマセラティの「再建」にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    越湖信一

    Shinichi Ekko

    イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。
  • 編集

    上野和秀

    Kazuhide Ueno

    1955年生まれ。気が付けば干支6ラップ目に突入。ネコ・パブリッシングでスクーデリア編集長を務め、のちにカー・マガジン編集委員を担当。現在はフリーランスのモーター・ジャーナリスト/エディター。1950〜60年代のクラシック・フェラーリとアバルトが得意。個人的にもアバルトを常にガレージに収め、現在はフィアット・アバルトOT1300/124で遊んでいる。

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