フェラーリのカリスマ、ルカ・ディ・モンテゼーモロが成し遂げたこと 【第7回】エンツォ・フェラーリ誕生秘話

公開 : 2024.05.25 08:05

エンツォ・フェラーリ誕生秘話

それまで何回にも渡ってピニンファリーナがモンテゼーモロへ出したプロポーサルのデザインは、どれもが却下されていた。そして、この時もまた新しいプロポーサルがお気に召さず、不機嫌な顔つきで待機している専用ヘリに足早に向かう彼だが、開発トップであるロレンツォ・ラマチョッティがそれを何とか引き留め、同時に奥山へ指示を出す。「例のヤツに至急、色を付けて持ってくるんだ」と。

奥山が描いたピニンファリーナ内のプレゼンで没になったスケッチのひとつを、モンテゼーモロにぶつけてみようと、とっさにラマチョッティは判断したのだった。まさに一か八かだった。あに図らんや、そのスケッチを見たモンテゼーモロの顔色が変わった。「良いじゃないか! 直ぐにモデリングを進めてくれ」と。

ピニンファリーナが提案した幾多のデザイン案は、モンテゼーモロを納得させるものではなかった。そこで一か八かでプレゼンしたのが「2人乗りフォーミュラカー」をコンセプトとするこのデザインで、モンテゼーモロが即決したという。
ピニンファリーナが提案した幾多のデザイン案は、モンテゼーモロを納得させるものではなかった。そこで一か八かでプレゼンしたのが「2人乗りフォーミュラカー」をコンセプトとするこのデザインで、モンテゼーモロが即決したという。    Ferrari S.p.A

その奥山の描いたスケッチのコンセプトは「ふたり乗りフォーミュラカー」。このコンセプトをスタイリッシュにまとめたのがエンツォの基本デザインだ。フェラーリ=ピニンファリーナ伝統のコークボトル風の曲線美とは趣をまったく異にするもので、ピニンファリーナ社内コンペでは評価されなかったが、モンテゼーモロは直感でこの案に惹かれたのだ。

フェラーリの象徴たるスペチアーレにおいて、これまでのフェラーリ・デザインの文脈を180度変える提案であり、それを生み出した奥山も、それに目を付けたモンテゼーモロもまたすごい。

過去のブランド・アイデンティティをしっかりと理解しながら、現在のデザイン文脈から一旦離れて新しいアイデアを構築することは、逆説的だがイタリア人にとって難しい。そこにユニークなマインドと充分な経験をもった奥山という日本人の存在をモンテゼーモロが見抜いたということに他ならないのだ。そんな経緯をもって「仮称FXことコードネームF140」は、「エンツォ・フェラーリ」の名が与えられることになったのである。

続きは2024年6月1日(土)公開予定の「【第8回】フェラーリのブランディング戦略」にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    越湖信一

    Shinichi Ekko

    イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。
  • 撮影 / 編集

    上野和秀

    Kazuhide Ueno

    1955年生まれ。気が付けば干支6ラップ目に突入。ネコ・パブリッシングでスクーデリア編集長を務め、のちにカー・マガジン編集委員を担当。現在はフリーランスのモーター・ジャーナリスト/エディター。1950〜60年代のクラシック・フェラーリとアバルトが得意。個人的にもアバルトを常にガレージに収め、現在はフィアット・アバルトOT1300/124で遊んでいる。

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