フェラーリのカリスマ、ルカ・ディ・モンテゼーモロが成し遂げたこと 【第8回】フェラーリのブランディング戦略
公開 : 2024.06.01 08:05
エンツォ・フェラーリの哲学を直接受け継ぎ、フェラーリを世界最高の企業に復興させた男がルカ・ディ・モンテゼーモロだ。まさにカリスマといえるその足跡を、イタリアに精通するカー・ヒストリアンの越湖信一が辿る。
F40の教訓
1987年に発表されたF40は、フェラーリのロードカービジネスにおける大きなターニングポイントとなった。フェラーリのロードカーとは、レースの世界で活躍したマシンを自分の手元に置いて楽しみたい、という限られた顧客にいわば「言い値」で販売する高付加価値ビジネスであった。
F40はレースカー譲りのハイパフォーマンスカーであることはもちろんであるが、ボディパネルはF1マシンに使われている軽量コンポジット材を用い、スパルタンなインテリアを敢えて演出するなど、非日常性を備えたロードカーに仕立てられていた。
もちろん、モンテゼーモロもフィアットの重鎮として、このF40の開発やマーケティングに深く関与していたことは言うまでもない。折りしも1988年に鬼籍に入ったエンツォ・フェラーリの置き土産、そう、彼の関わった最後の1台というとっておきのセールストークが謳われたから、F40は世界中のフェラーリファンから引っ張りだことなった。
このようなフェラーリのイメージリーダーとして仕立てた高付加価値モデルを「スペチアーレ」と称し、限られた顧客のために作られた高額な数量限定モデルがフェラーリ史の節目となる時期に次々と誕生することとなった。
当初、300台の限定モデルとして計画されたF40であったが、世界的な景気上昇や日本のバブル景気などもあり、オーダーがどんどん増え増産を決断する。最終的にはなんと1300台を越す、それまでの量産モデル以上の台数がデリバリーされたのだ。
すると、中古車市場には転売益を求めたオーナーが手放したF40がゴロゴロと現れることに。特別な人だけが買うことのできるフェラーリの中でも、特に希少な存在であるスペチアーレの意義が、薄れてしまうという予想しなかった事態が起こってしまった。販売に関する根本的戦略が明確でなかったのだ。
敬虔なファンだけにデリバリーされたF50
フェラーリにはマーケティングの天才がいた。創始者であるエンツォ・フェラーリである。そう、彼は実に賢明なマーケティングマンであった。フェラーリはとことん非日常的なクルマでなければいけないと彼は考えたから、彼は「欲しがる客の数より1台少なく作れ」と家訓のように言い続けていたという。つまり、手に入れそこなった顧客はさらに熱心に次モデルを欲すはずであり、そういったエピソードすら独り歩きして神話となってくれると考えたのだ。
モンテゼーモロは、エンツォの神格化を上手く活用した。このエンツォが語っていたというマーケティング理論は、モンテゼーモロの口からも幾度となく語られた。スペチアーレのオーダーに際しては、綿密に顧客を管理するという戦略を明確にした。
集まってきた世界各国からのオーダーを元に、誰にデリバリーするか本国マラネッロが判断するとした。だからモンテゼーモロが采配を振ったF50においては、F40のような事態にはならなかった。ご存知のように、F50は349台限定という生産台数がアナウンスされ、敬虔なフェラーリファンは自分にデリバリー権が来ることを祈ったのだった。