フェラーリのカリスマ、ルカ・ディ・モンテゼーモロが成し遂げたこと 【第9回】株式上場を目論むマルキオンネとの確執

公開 : 2024.06.08 08:05

エンツォ・フェラーリの哲学を直接受け継ぎ、フェラーリを世界最高の企業に復興させた男がルカ・ディ・モンテゼーモロだ。まさにカリスマといえるその足跡を、イタリアに精通するカー・ヒストリアンの越湖信一が辿る。

結果を残したモンテゼーモロだが

text:Shinichi Ekko(越湖信一)
photo:Ferrari S.p.A.

モンテゼーモロに託されたフェラーリの改革は、誰の目で見ても充分な結果を出したといえるであろう。2000年にミハエル・シューマッハーが21年ぶりのドライバーズ・チャンピオンの座を獲得し、2004年まで維持し続けた。(但し、F1の世界においては2008年を最後にコンストラクターズ・タイトルは離れ、無冠時代が続いているが…)

そして、彼がフェラーリの全権を握っている期間に売上高を10倍、販売台数を3倍へと大きく押し上げ、世界最強のスーパーカー・ブランドを築き上げた。ちなみに、2013年は売上高23億ユーロ、最終利益でも2億4600万ユーロの増収増益と絶好調、年間の総生産台数は6922台と発表されている。しかし、そんなモンテゼーモロにとって2013年がフェラーリにおける最後の年となってしまうとは……。

モンテゼーモロはスクーデリア・フェラーリをすべての面で最強の体制に構築した。これにより、ドライバーズ・チャンピオンは2000年から5連覇、コンストラクターズ・タイトルは1999年から6連覇という偉業を成し遂げた。
モンテゼーモロはスクーデリア・フェラーリをすべての面で最強の体制に構築した。これにより、ドライバーズ・チャンピオンは2000年から5連覇、コンストラクターズ・タイトルは1999年から6連覇という偉業を成し遂げた。    Ferrari S.p.A

フェラーリとの決別

時計の針を2014年9月10日へと合わせてみよう。マラネッロではふたりの男が記者会見に望んでいた。FCA(現ステランティス)のCEOであるセルジオ・マルキオンネとフェラーリ会長、FCAの取締役を務めるモンテゼーモロであった。

「フェラーリはFCAグループのウォール街における浮上に重要な役割を持つことになります。これはひとつの時代の終わりであり、70年代から故エンツォ・フェラーリのそばで過ごした23年間は私にとって忘れられないものです。フェラーリという世界最高の会社の更なる成功を願っています」とモンテゼーモロはこのような「別れの挨拶」をし、何とフェラーリの職を辞したのだった。

2014年9月10日にマラネッロでFCA(現ステランティス)のCEOであるセルジオ・マルキオンネとフェラーリ会長、FCAの取締役を務めるモンテゼーモロが記者会見に望んでいた。フェラーリの政権交代が発表されたのである。
2014年9月10日にマラネッロでFCA(現ステランティス)のCEOであるセルジオ・マルキオンネとフェラーリ会長、FCAの取締役を務めるモンテゼーモロが記者会見に望んでいた。フェラーリの政権交代が発表されたのである。    Ferrari S.p.A

モンテゼーモロはその前年には、当面のフェラーリ会長職の続投を示唆しながらも、中国市場の急激な拡大がフェラーリのブランド・ポリシーにそぐわないこと、そして、それにともなう総生産数の急増はフェラーリの希少性を脅かすものであるとして、中国から膨大なオーダーがあるにも関わらず生産量を絞るという判断を下した。

彼はフェラーリ・ブランドの希少性を確保するために年間生産台数は7000台程度が妥当であると考えていたようだ。さらにフィアット=アニエッリ家の元でフェラーリは非上場企業としてビジネスを進めてきたが、これは独自の経営路線を貫き通すために、これから先も重要な方法論であるという立場も表明していた。

フェラーリの生産台数に関する考え方をここで再度、お伝えしておこう。彼らはブランドとしての魅力を維持するために絶えず需要と供給のバランスを綿密にとっていた。この手のモデルはショールームや中古車市場に在庫車が溢れていてはいけない。

クルマが欲しいと思い顧客がショールームを訪ねても納車までは長い期間がかかったり、場合によっては「あなたには申し訳ないがお売りできません」と優良顧客にだけしか販売しないモデルを発表したりもする。では、と中古車販売店を覗いてみるなら、そこではカタログプライスを遥かに超えたプレミアム付でそのクルマが並んでいる…。

そういったマーケティングを行ってきたのがフェラーリだ。急に大量の注文が入ったとすれば普通のメーカーなら大喜びで増産するであろうが、彼らはそこで慎重にその先の流れを読む。モンテゼーモロはそのあたりの見極めに自信をもっていたのだ。

記事に関わった人々

  • 執筆

    越湖信一

    Shinichi Ekko

    イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。前職であるレコード会社ディレクター時代には、世界各国のエンターテインメントビジネスにかかわりながら、ジャーナリスト、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表として自動車業界にかかわる。現在はビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。
  • 編集

    上野和秀

    Kazuhide Ueno

    1955年生まれ。気が付けば干支6ラップ目に突入。ネコ・パブリッシングでスクーデリア編集長を務め、のちにカー・マガジン編集委員を担当。現在はフリーランスのモーター・ジャーナリスト/エディター。1950〜60年代のクラシック・フェラーリとアバルトが得意。個人的にもアバルトを常にガレージに収め、現在はフィアット・アバルトOT1300/124で遊んでいる。

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