スカイラインGT-Rで成功した男(1) カーマニアと日産との出会い いしずえ築いたR32型

公開 : 2024.05.19 17:45

英国では、GT-Rに関して右に出る者はいないアンディ R32型でBTCCを勝利 R33型とR34型の輸入を牽引 Mスペックはミドルハースト日産のM? 英編集部が彼と4世代の物語をご紹介

モータースポーツの血が流れる、生粋のカーマニア

英国で日産のワークス・ドライバーを務めた、アンディ・ミドルハースト氏。だが、それだけではない。開発技術者としても、ディーラーの経営者としても、スカイラインGT-Rへ深く関わってきた人物だ。

GT-Rに関して、彼の右に出る英国人は存在しないだろう。彼の熱意がなければ、R33型とR34型のスカイラインGT-Rは、グレートブリテン島の土地を正規に踏むことはなかった可能性が高い。

ホワイトのR32型日産スカイライン GT-Rと、シルバー・グレーのR33型
ホワイトのR32型日産スカイライン GT-Rと、シルバー・グレーのR33型

古いGT-R人気は、留まるところを知らない。最もお手頃なR32型でも、英国では3万ポンド(約576万円)はくだらない。状態の良いR34型なら、10万ポンド(約1920万円)を準備しても入手は難しい。

R35型GT-Rは、欧州での販売が2022年に中止された。それでも、クラシックとして歴代モデルが世界的な評価を高める今こそ、グレートブリテン島中西部、マージーサイド州にあるミドルハースト日産を訪れるべきタイミングだろう。

スカイラインのクーペがズラリと並ぶ駐車場で待っていた彼は、快く様々な話を聞かせてくれた。モータースポーツの血が流れる、生粋のカーマニアなことは間違いない。

曽祖父と祖父は、1930年代からバイクレースへ夢中だったらしい。父親も、乗用車をベースにしたナショナル・サルーンカー・チャンピオンシップへ出場。オースチンA40やオリジナルのミニ・クーパーSで、伝説のジム・クラーク氏と速さを競ったとか。

彼のいしずえを築いたR32型GT-R

戦後直後まで、家業はスクラップヤードの運営だった。しかし1950年代には、Jミドルハースト&サンズとしてディーラーを創業。当初はオースチンとライレー、ルノーを販売していたが、1978年にダットサン、現在の日産へブランドをチェンジした。

その店舗は、マージーサイド州のジャクソン・ストリートに位置し、アンディは1980年に18歳で入社。下積み時代はサービス部門とパーツ部門で過ごし、モータースポーツ・キャリアを徐々に積み上げていった。

ミドルハースト日産のアンディ・ミドルハースト氏と、4世代のGT-R
ミドルハースト日産のアンディ・ミドルハースト氏と、4世代のGT-R

彼のオフィスには、棚いっぱいに歴代のトロフィーが並ぶ。壁には、GT-Rでサーキットを攻める様子の写真が、額装されて飾られている。

ワークショップでは、ジュークとマイクラが整備を受けていた。反対側には、1995年からサルーンカー・チャンピオンシップで2度の優勝を掴んだ、R32型GT-Rのレーシングカーが停まっている。美しくレストアされて。

その後も2度の優勝を掴んでいるが、このR32型が、彼のいしずえを築いたといっていい。ただし、決して平坦な道のりではなかった。

「初めは、フォーミュラ・フォードに参戦していました。10代の頃は、アイルトン・セナと対決もしたんですよ」。61歳になったアンディが、ほほ笑みながら振り返る。

「1982年にスター・オブ・トゥモロー・チャンピオンシップで優勝。F1を目指していましたが、F3を戦う予算すらありませんでした。諦めて転向したのが、フォード・エスコート RS2000でのラリーです」

記事に関わった人々

  • 執筆

    ベン・バリー

    Ben Barry

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

スカイラインGT-Rで成功した男の前後関係

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