アストン マーティン・ヴィラージュ 6.3(1) V8エンジンは「グループCカー」 未来を背負ったクーペ

公開 : 2024.06.01 17:45

1980年代にアストン マーティンの未来を背負ったヴィラージュ プロトタイプ・レーサーのエンジンを公道モデルへ ブランドを好調へ導いたトリガー 30年前の賜物を英国編集部がご紹介

ブランドの未来を背負ったヴィラージュ

「お客様の1人には、返金すら考えました。操縦性に関しては、多くの苦情が寄せられましたよ。在庫していたクルマはダブつき、ドイツのアウトバーンを走ったオーナーからは、246km/hしか出ないというご指摘のお電話もいただきました」

アストン マーティンのディーラーへ在籍していた人物が、30年ほど前を振り返る。1988年の英国バーミンガム・モーターショーで公開されたヴィラージュには、ブランドの威信がかけられていた。巨額の投資を行った、フォードからの視線も熱かった。

アストン マーティン・ヴィラージュ 6.3(1992〜1993年/英国仕様)
アストン マーティン・ヴィラージュ 6.3(1992〜1993年/英国仕様)

プロジェクトの発表は1984年。それまでに50件以上の申し込みがあり、数万ポンド単位の手付け金が集められていた。

グレートブリテン島南中部、ニューポート・パグネルに拠点を置いたアストン マーティン・ラゴンダ社は、年間200台を提供した時期もあった。しかし、V8ヴァンテージやラゴンダは生産が終了。ブランドの未来は、ヴィラージュが背負っていた。

従業員の半分はリストラされ、数100人が残る程度。1990年代に向けては、ジャガーとの共同で新しいDB7の計画も進められていた。とはいえディーラーの現場では、これに大きな期待を抱いていなかった。

ヴィラージュで大きな課題となったのが、先代のアストン マーティンV8の技術を流用しつつ、いかに新世代を構築するか。スーパーチャージャーの採用や、モータースポーツへの挑戦も視野に含まれていた。

プロトタイプ・レーサーのエンジンを公道仕様へ

アストン マーティンの前会長、ビクター・ガントレット氏は、1987年に自社株の75%をフォードへ売却する前に、レーシングチームのリチャード・スチュワート・ウィリアムズと連携。グループCカテゴリーに準じた、ワークスマシンの製作を依頼していた。

1989年に完成したプロトタイプ・レーサー、AMR1は、世界スポーツプロトタイプ選手権へ参戦。ル・マン24時間レースも戦い、1台が完走を果たしている。6.3L V8エンジンは、アメリカのキャラウェイ・カーズが仕上げていた。

アストン マーティン・ヴィラージュ 6.3(1992〜1993年/英国仕様)
アストン マーティン・ヴィラージュ 6.3(1992〜1993年/英国仕様)

ところが、アストン マーティンと同じ傘下へ同年に収まったジャガーとの直接対決へ、フォードは難色を示す。最終的に、1年限りの活躍に終わった。

他方、ニューポート・パグネルのカスタマーサービス部門は、レース仕様のエンジンを以前から欲していた。資金力のあるオーナーには、アップデート版のサスペンションやブレーキを提供しており、当然、強力なエンジンを欲する人も少なくなかった。

そこで目が付けられたのが、AMR1用の6.3L V8ユニットだった。カスタマーサービス部門のデビッド・イールズ氏は、1台のヴィラージュを開発ベースとして準備。名門コスワースの協力を得ながら、公道仕様としての調整が進められた。

ヘッドはダブル・オーバーヘッドカムの32バルブで、圧縮比は9.5:1。シーケンシャル・インジェクションにガスフロー・ヘッド、専用設計の排気触媒が与えられ、6週間に及ぶランニングテストが実施された。

かくして得られた最高出力は、471ps。通常のヴィラージュは5.3L V8で334psだったから、40%も向上していた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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