東欧の「ポルシェ」 刺激的だった廉価ブランドのRR シュコダ130/フェイバリット/120 ラピッド(1)

公開 : 2024.06.02 17:45

ブランドイメージ向上のため、シュコダが選んだのはラリー 東欧のポルシェという異名を持つ130 RS サーキットでも強かったリアエンジン 3台のワークスマシンを英国編集部がご紹介

東欧のポルシェという異名を持つ130 RS

1985年のシュコダは刺激的だった。「あなたも勝者になれるかも!」。英国ではこんなフレーズが、新しい130 L、別名エステルの売り文句に使われていた。2000ポンドを追加すれば、コンペティション専門ディーラーでグループAのラリー仕様に改造もできた。

当時の筆者はラリーへ強い関心を抱いていたわけではなかったが、一連のプロモーションは、モータースポーツへ足を踏み入れるきっかけを作った。改造した130にスリックタイヤを履かせ、ヒルクライムやスプリント・イベントへ興じたのだった。

手前から、シュコダ130 LRと、フェイバリット 136 L
手前から、シュコダ130 LRと、フェイバリット 136 L

シュコダという、少しマイナーなブランドのポジションも魅力といえた。単純なメカニズムの耐久性へ、心が奪われていった。

現在は、フォルクスワーゲン・グループの廉価ブランドとして組み入れられたシュコダだが、25年前までは独立した旧チェコスロバキアの自動車メーカーだった。市場競争を生き抜くべく、優れたマシンがモータースポーツで輝かしい成績を残してきた。

特に、東欧のポルシェという異名を持つリアエンジンのシュコダ130 RSは、1977年のラリー・モンテカルロでクラス優勝。英国RACラリーでは、17年間連続クラス優勝という偉業を達成している。

1985年のシュコダ130 LRは、グループBでプジョー205 T16やアウディ・クワトロに善戦。1986年のトルコ・ギュナイディン・ラリーでは、総合優勝を掴んでもいる。

シュコダの主力マシンは、その後フェイバリットへスイッチ。世界ラリー選手権での活躍は、1994年まで続いた。

サーキットでも強かったリアエンジンのシュコダ

130 RSは、サーキットでも強かった。1981年の欧州ツーリングカー・チャンピオンシップでは、8戦中6勝。低価格帯のモデルが中心のメーカーだったが、モータースポーツでの活躍が、ディーラーでの販売を後押ししていたことは間違いない。

今回取り揃えた3台は、そんな黄金期の1つを代表するモデルたち。その内の2台は、1980年代から1990年代にかけて、クラス優勝の常連だったワークス・ラリーカーだ。

シュコダ120 ラピッド・クーペ(グループN/1983〜1990年/英国仕様)
シュコダ120 ラピッド・クーペ(グループN/1983〜1990年/英国仕様)

C155 BYRのナンバーで登録された130は、1985年に英国シュコダが用意した、グループAマシンの1台。L910 ORPのナンバーは、フェイバリット 136 L。1993年のラリーGBのために4台が作られた、N1マシンの生き残りだ。

もう1台、サーキットでの活躍の生き証人となるのが、E157 YJLのナンバーの120 ラピッド・クーペ。1986年にドニントンパーク・サーキットで優勝した当時の姿を、ほぼそのまま残している。

撮影の合間に、シルバーストン・ラリースクールの林間コースを走り込み、2台のラリーマシンは泥まみれ。コンパクトなサイズは、テクニカルなステージにぴったりだ。

C155 BYRの130は、ジョン・メリング氏が現オーナー。購入してから9年が経つが、5年間のレストアを経て、今のような完璧な状態を取り戻したそうだ。

当初からワークスカーとして製造され、グループAのホモロゲーション番号として、A-5252が振られているという。その後、グループA5仕様に作り直された。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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