ホントに「世界一美しい」4シーター?  知られざるフィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1) 博打的な大量購入

公開 : 2024.06.09 17:45

ヴィニャーレ社で作られた、フィアット125 サマンサ 「世界で最も美しい4シーター」という誇張気味の売り文句 ロンドンのカジノ経営者が英国への輸入を牽引 知られざる1台を英編集部がご紹介

誇張された「世界で最も美しい4シーター」

何事も、見た目で判断するのは良くない。だが、表面的な印象が8割を決める、ということも事実だろう。

フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサは、「世界で最も美しい4シーター」として売りに出された。しかし、だいぶ誇張した表現といえた。1960年代の終りには、より優れた美貌を備えるモデルが少なからず存在した。

フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)
フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)

フィアット125をベースに作られたクーペは、イタリアン・カロッツエリアのボディをまとう。滑らかなシルエットはエキゾチックで、コーチビルド・モデルとして一定の評価を集めたことは間違いない。目を細めれば、カッコ良く見えるかも。

最高出力は91psで、最高速度は165km/hに留まり、同時期のジャガーEタイプより英国価格は高かった。多くの人の記憶から消えたフィアットになっても、不思議ではない。

サマンサは、スクエアなカタチのサルーン、125と基本的にメカニズムが共通だった。不揃いなプロポーションも、それが理由。特に、エンジンルームとキャビンを隔てるスカットル部分が高く、腰高にならざるを得なかった。

中身は同じで、衣装を着せ替えただけのモデルといってもいいだろう。それでも、約60年という時を経て、不思議な魅力を漂わせている。

ボディを観察すると、上級グランドツアラーからヒントを得たであろう処理が、散りばめられていることへ気付く。離れた位置から斜め後ろをぼんやり見れば、その頃のマセラティと勘違いできなくもない。

カジノ経営者が英国へ積極的に輸入

サマンサを英国へ積極的に輸入したのは、ロンドンのカジノ経営者だった。彼がいなければ、グレートブリテン島でつかの間の話題を生むことはなかっただろう。

1960年代のイタリアでは、アルフレッド・ヴィニャーレ氏の名を冠したカロッツエリアが急成長。小さなボディ・ワークショップから、車両自体の量産が可能な生産ラインを備える、統合的なスタイリング・ハウスへ変化していた。

フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)
フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)

アウディの一部を構成するNUSは、1920年代末にフィアットと提携し、NSU-フィアット、後のネッカー社を設立。ヴィニャーレ社はその複数のスタイリングを依頼され、堅調に収益を上げていた。フィアット850でも、クーペとスパイダーが任された。

事業の安定化を狙い、同社は1966年に独自ブランドのモデルラインを創設。フィアット 124 エヴリンに続いて、1967年のイタリア・トリノ・モーターショーで発表されたのが、サマンサだった。

同時に公開されたのが、フィアット・ヌォーヴァ500をベースにした、小さなヴィニャーレ・ガミーネ。これが、ミラノに滞在していたギリシア系の実業家、フリクソス・デメトリウ氏の目に止まった。

その4日後には、自身と彼の顧問弁護士はアルフレッドへ対面。右ハンドル車の提供を条件に、200台の契約が結ばれた。

また一緒に、彼はヴィニャーレ・フィアット850 スペシャルや、サマンサなども一括で購入を希望した。現金で支払える資金力が、有利に話を進めたはず。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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