ホントに「世界一美しい」4シーター?  知られざるフィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1) 博打的な大量購入

公開 : 2024.06.09 17:45

イタリア車の輸入事業を本格的にスタート

フリクソスの浪費は、翌年も続いた。別のカロッツエリア、フランシス・ロンバルディ社へ接触し、850をベースにした小さなクーペ、ロンバルディ・グランプリを複数台契約。イタリア車の輸入事業を、本格的にスタートさせた。

フィアット・ベースの変わったモデルへ、彼が強い関心を抱いた理由は定かではない。情報を表に出さなかった人物として知られ、英国では多くの逸話が残されている。

フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)
フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)

明らかな事実は、彼が地中海に浮かぶ小さな島国、キプロス共和国を拠点にカジノ・チェーンを創業したこと。ロンドンにも、店舗の1つを構えていた。だが営業ライセンスの剥奪を恐れ、事業の多様化を進めたようだ。

ロンドン西部のクイーンズウェイ地区へ広大な土地を準備したフリクソスは、そこへ珍しいボディをまとったフィアットを並べた。1968年のロンドン・モーターショーには、その1部を出展。翌年のショーにも、自らのブースを用意した。

その頃の自動車雑誌、カー誌は、「レーシングカー・ショーで最も意欲的ではない出展者」というタイトルで、彼を紹介している。黒いコートとサングラスで着飾った彼の写真が表紙を飾ったが、インタビューにはかなり非協力的だったことがわかる。

本家の124 クーペより高かったサマンサ

小さなヴィニャーレ・ガミーネは、メディアから注目を集めた。サマンサも、エキゾチックなクーペとして存在感は小さくなかった。

英国で課題になったのが価格。関税を乗せるとサマンサは2211ポンドに達し、フィアット124 スポーツクーペより773ポンドも高くなったのだ。

フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)
フィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(1967〜1970年/英国仕様)

それでも、フリクソスはヴィニャーレ側へ大量注文。量産車によるレース、英国サルーンカー選手権への出場を発表し、露出の拡大が狙われた。しかし、ロンバルディ・グランプリでの参戦と同じく、実現はしていない。

彼の考えに、明確な裏付けはなかったのだろう。それでも、野心と財力は大きかった。約50万ポンド、現在の価値で約700万ポンド(約13億5800万円)を輸入車ビジネスへ投じていたのだから。そのかわり、成功が難しいとわかると撤退も早かった。

他方、英国の正規ディーラーは、フィアット・ベースのヴィニャーレやロンバルディが別ルートで輸入されていることへ、納得していなかった。これらのモデルは、完成度が高いわけでもなかった。

フリクソスと彼の弁護士は、イタリアの本社と契約を結び、輸入した車両は正規ディーラーでの保証が受けられることになっていた。ところが、英国のフィアットへその事実は通知されていなかった。ディーラー側が不満を抱いたとしても、不思議ではない。

この続きは、知られざるフィアット125 ヴィニャーレ・サマンサ(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    リチャード・ヘーゼルタイン

    Richard Heseltine

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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