Cタイプが買えないなら作ればイイ! ベースはジャガーXK120 純白のハンスゲン・スペシャル(1)
公開 : 2024.06.23 17:45
ジャガーCタイプが欲しかった、32歳でサーキットデビューしたウォルト 運転スキルを磨いたXK120の部品で自作 初戦から見事に優勝 純白のワンオフ・レーサーを英国編集部がご紹介
32歳でサーキットデビューしたウォルト
サーキットデビューを32歳で果たしたレーシングドライバー、ウォルト・エドウィン・ハンスゲン氏。大きな野心を持った人物だったが、以前から経験を積んでいたわけではなかった。
アメリカ・ニュージャージー州出身のニューカマーを、現地のモータースポーツ界は警戒した。紳士的な場の雰囲気を、のっけから乱し始めたからだ。ニューヨーク州のワトキンス・グレンを舞台に開かれた世界大会で、そんな印象は決定付けられた。
全長10.6kmの市街地ルートは、ニューヨーク・セントラル鉄道の線路を横断した。レールを越える区間は起伏が大きく、クルマが数mジャンプすることもあった。シャシーやサスペンションへ強い負荷がかかった。
1951年のワトキンス・グレン・グランプリがスタートして数周後、ウォルトがドライブするシルバーのジャガーXK120は、エグゾースト・マウントが破損。ピットへ駆け込み、チームスタッフがワイヤーで固定し、残りの15周へ挑んだ。
猛追するのは、同じクラスを走るシャーウッド・ジョンソン氏のXK120。才能にも恵まれていた彼はすぐに追いつき、ノーズトゥテールの接近戦へ。詰め寄せた観客を大いに湧かせた。
しかし、主催者のスポーツカークラブ・オブ・アメリカの反応は違った。ウォルトがブレーキングを遅らせ、ジョンソンのリアへヒット。これが幹部の本格的な怒りを買い、レースライセンスの停止が命じられてしまう。
運転スキルを磨いたジャガーXK120
ウォルトは、1951年シーズンの残りを観客として過ごした。だが、少なくともワトキンス・グレンではクラス2位を獲得。総合でも9位という戦績を残した。トラブルがなければ、総合5位に入っていた可能性もあった。
そんな彼がXK120の購入を決めたのは、レース観戦で刺激を受けた1950年。すぐに地元のディーラーへ向かい、ショールームに飾られていた曲線美をまとうスポーツカーの印象を、妻へ尋ねたという。もちろん、美しさには賛同したはずだ。
この翌日には、自宅前に真新しいジャガーが届けられた。レースのために母親から資金を借り、英国製のロードスターを購入したのだった。妻は驚いたに違いないが、クイックシルバーというあだ名がつけられた。
初戦は1951年5月24日。ニューヨーク州の東、ブリッジハンプトンで開かれた市販車によるスポーツカー・レースで、7台のXK120と順位を争った。優勝していないが、完走はしている。
9月にサーキットでのレースライセンスが停止されても、ウォルトは多くのヒルクライム・イベントへ参加。ドライビングテストにも挑んだ。1952年が来る頃には、充分なスキルを持ったドライバーになっていた。
経験を積む中で、XK120の弱点にも気づき始めた。ジャガーのファクトリーレーサー、Cタイプの登場で、考えは確信に変わった。しかし、ジャガーは販売相手へ強いこだわりを持っていた。影響力の大きくないウォルトに、買えるチャンスは巡ってこなかった。