生産を継いだのはリッチな「日本人」 ミドルブリッジ・シミターGTE(1) 王女ご愛用スポーツワゴン

公開 : 2024.07.06 17:45

裕福な日本人とアストンの元技術者が継承

しかしリライアントは、1986年にシミター GTEの生産を終了。ここでアン王女とスポーツワゴンの繋がりは絶たれるかと思いきや、クルマ好きの裕福な日本人と、アストン マーティンの元技術者が突如登場する。

英国車を愛し、1986年12月にミドルブリッジ・グループを英国で創設したのが、中内康児氏。本来はレース参戦が目的とされ、1988年にはミドルブリッジ・レーシングを立ち上げ、F1チームだったブラバムの経営を受け継いでいる。

ミドルブリッジ・シミター GTE(1989〜1990年/英国仕様)
ミドルブリッジ・シミター GTE(1989〜1990年/英国仕様)

同時に、アストン マーティンの元部品マネージャー、デニス・ナーシー氏と協業。海外市場をターゲットに、新しい英国車の開発が計画された。

その頃の日本は、バブル景気に湧いていた。ローバー・ミニが積極的に輸入され、ジャガーやアストン マーティンのクラシックカーも、盛んに島国へ運ばれていた。ドイツ車だけでなく、英国車にも関心が集まっていたことは間違いなかった。

中内とナーシーは、信頼性の高い日本製部品を利用しつつ、伝統的な手法で英国車を生み出すというアイデアへ帰着。このタイミングで彼らへ接近したのが、リライアントとの関係が深かった、ピーター・ボーム氏とジョン・マッコーリー氏だ。

製造終了が決まったシミター GTEではあったが、注文はまだ残っていた。2人は、製造機械を購入する計画を進めていたのだ。

実際、量産車の新規開発は簡単ではなかった。中内とナーシーは、ミドルブリッジ・シミター・ブランドでクルマを提供する現実的な方法だと判断。資金提供を決める。

多くのアップデートで1990年代の仲間入り

事業のモデルとなったのは、モーガンだった。当時、同社は年間400台前後のスポーツカーを製造していたが、クラシカルなスタイリングと、現代的なドライブトレインという組み合わせが特長だった。伝統的な、職人による手作業も残っていた。

中内とナーシーは、ミドルブリッジ・シミターでも同様の手法でクルマを作れると考えたのだろう。ボームとマッコーリーも。

ミドルブリッジ・シミター GTE(1989〜1990年/英国仕様)
ミドルブリッジ・シミター GTE(1989〜1990年/英国仕様)

シミター GTEの製造機械は、1987年に購入が完了。並行し、リライアントの関係者やオーナーズクラブのメンバーへ、アップデートするのに望ましい方法が募られた。

ミドルブリッジ・シミターによるプロトタイプ発表は、1988年のロンドン・モーターショー。それまでに約2年間の開発期間と、100万ポンドの予算が費やされた。新しい工場は、グレートブリテン島中部のノーサンプトンシャー州に完成した。

ボンネット内には、フォードから調達した燃料インジェクション式の2.9L V型6気筒エンジンを搭載。トランスミッションは4速から5速になり、バンパーはボディと同色に塗装され、ハロゲン・ヘッドライトを得るなど、1990年代の仲間入りが狙われた。

テールライトとアルミホイールは新デザインで、新しさを強調。サスペンションは再設計され、リアにはアンチロールバーを追加し、走行安定性も高められた。

高級グランドツアラーの水準へ、品質を改善することも目指された。パワーウインドウにヒーター内蔵ドアミラー、上質なインテリアなど、プレミアムな装備も用意されている。

この続きは、ミドルブリッジ・シミターGTE(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    チャーリー・カルダーウッド

    Charlie Calderwood

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジョン・ブラッドショー

    John Bradshaw

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ミドルブリッジ・シミターGTEの前後関係

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