ACコブラ(1962年)

キャロル・シェルビー氏(元飛行教官、経験豊富なレーシングドライバー、養鶏農家)はレースでのキャリアを謳歌していたが、心臓疾患が発覚する。レースの前には毎回、ニトログリセリンの錠剤を飲まなければならなくなった。結局、彼はレースを断念した。サーキットを荒らすのをやめた理由は病状だけではなく、自分でクルマを作るという夢もあった。

英国の自動車メーカー、ACカーズは当時エース(ACE)というスポーツカーを生産していた。バランスの取れたクルマだが、アメリカ的な力強さに欠けていた。ACカーズと手を組んだシェルビー氏は、エース向けにV8エンジンの提供をシボレーに依頼したが、断られてしまう。その後、フォードに相談したところV8を融通してもらえることになり、コブラの誕生につながった。

ACコブラ(1962年)
ACコブラ(1962年)

ロータスエラン(1962年)

ロータス・エリートは商業的には大成功を収められず、創業者コリン・チャップマン氏はさらに組み立てが簡単で壊れにくいロードカーを模索していた。その結果、グラスファイバー製ボディを持つオープンスポーツカーが誕生した。

オープンカーであるため、ねじれ剛性には特別な配慮が必要であり、低重量を維持しながらシェルの剛性を高めるため、強固なスチール製バックボーン・シャシーが採用された。今では経年劣化が進み、現存する車両の多くがシャシーを交換している。

ロータス・エラン(1962年)
ロータス・エラン(1962年)

フェラーリ250 GTO(1962年)

多くの人にとって、250 GTOはフェラーリの最も美しい作品の1つとみなされている。2018年にはオークションで4800万ドルで落札された例もある。デザインはビッザリーニ5300 GTの生みの親ジョット・ビッザリーニが手掛け、わずか36台しか生産されなかった。

250 GTOは1962年、1963年、1964年に国際GTマニュファクチャラーズ選手権で優勝。また、セブリング12時間レース、ル・マン、タルガ・フローリオ、スパ1000kmでも勝利を収めている。

フェラーリ250 GTO(1962年)
フェラーリ250 GTO(1962年)

MG MGB(1962年)

MGは当時、1955年から1962年まで10万台以上の販売台数を記録した人気モデルMGAの後継を探していた。MGBはまさに適任で、18年にわたって生産され、当時世界で最も売れたスポーツカーとなった。新車時の価格は約950ポンド(現在の約520万円)で、多くが英国から海外に輸出された。

MGBは英国文化によく馴染み、1965年にGTが登場したことでさらなる盛り上がりを見せた。

MG MGB(1962年)
MG MGB(1962年)

記事に関わった人々

  • AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 林汰久也

    Takuya Hayashi

    平成4年生まれ。テレビゲームで自動車の運転を覚えた名古屋人。ひょんなことから脱サラし、自動車メディアで翻訳記事を書くことに。無鉄砲にも令和5年から【自動車ライター】を名乗る。「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。イチゴとトマトとイクラが大好物。

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