トライアンフ・スピットファイア4(1962年)

スピットファイアは開発段階で「ボム(Bomb)」というニックネームで呼ばれていた。トライアンフの開発チームは、非常に小さなトランクと貧弱なウェザープロテクションを持つヒーレー・スプライトよりも良いものを作れると考えていた。

プロジェクト・ボムは、トライアンフ・ヘラルドのバックボーン・シャシーと駆動系を流用した。しかし、1956年のスエズ危機の影響で英国の自動車販売が低迷し、トライアンフは財政難に陥っていたため、プロジェクト・ボムは未完成のまま工場に放置された。

トライアンフ・スピットファイア4(1962年)
トライアンフ・スピットファイア4(1962年)

その後、トライアンフがレイランドに買収され、工場を訪れた幹部はこのプロジェクトに大きな関心を示した。開発作業は再開し、ニックネームは廃止され、スピットファイアという正式名称が与えられた。こうして唸るような排気音を持つスポーツカーが誕生した。

シボレーコルベットC2(1963年)

ジャガーEタイプが発表されたとき、その大胆なスタイリングは英国を震撼させた。シボレーがC2コルベットを発表したとき、同じことが米国でも起こった。速さとスタイリングの両面で新しい領域に踏み込んでおり、あまりの人気の高さから工場は2交代制へと移行したが、それでも需要に追いつけなかった。

シボレー・コルベットC2(1963年)
シボレー・コルベットC2(1963年)

ポンティアックGTO(1963年)

1963年9月に生産開始し、初年度の販売予測は5000台だったが、結果は3万2450台だった。GTOはポンティアック・ルマン向けのオプションパッケージとして用意され、エンジン強化により最高出力325psを発生する。さまざまなコンポーネントや「GTO」バッジが装着され、ボディとしてはクーペ、コンバーチブル、ハードトップがあった。

1960年代のGTOはとにかくクールで、ステアリングが鈍くブレーキにも疑問が残るものの、ひねりが効いていた。1965年型のテンペストは、1/4マイルを15秒以下で走破した。

ポンティアックGTO(1963年)
ポンティアックGTO(1963年)

アストン マーティンDB5(1963年)

「ウォッカ・マティーニを、ステアではなくシェイクで」――アストン マーティンDB5はしばしば「世界で最も有名なクルマ」と称される。あらゆる面で目を見張るものがあるが、映画『007/ゴールドフィンガー』で機関銃、バタリングラム、煙幕など数多くのガジェットを装備し、人々を夢中にさせた。

先代のDB4は好調な売れ行きを示したが、激しい競争についていくためにDB5が作られた。全体として、クーペが887台、コンバーチブルが123台、特注のシューティングブレークが12台生産された。セレブたちは1022台のうちの1台を手に入れようと、アストン マーティンに大金を投じた。

アストン マーティンDB5(1963年)
アストン マーティンDB5(1963年)

記事に関わった人々

  • AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

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