デビュー戦から「1-2」フィニッシュ! 現存1台のディマ1100(1) フィアットの4気筒でGPへ

公開 : 2024.07.27 17:45

とあるポルトガル人がチシタリアのシャシーで製作した、1100ccのスポーツレーサー デビュー戦から1-2フィニッシュ 量産モデルへ着手するものの4年で終止符 英編集部が貴重な1台を解説

ポルトガルで高まったモータースポーツ人気

限られたパワーを活用する技術は、90年前のポルトガルで高く評価されていた。エアインテークから沢山の空気を吸い込み、ガソリンを効率的に燃焼させ、手強いワインディングを小さなマシンは駆け登った。

1935年に全国ヒルクライム選手権の創設に至ったポルトガルでは、アドレナリンを欲した裕福なドライバーが、国土へ広がる山脈の道を攻め込んだ。ドライバーの賢明な変速と、断崖絶壁へひるまない勇気も必要とされたが。

ディマ1100(DM/1951年式)
ディマ1100(DM/1951年式)

第二次大戦を挟んでも、モータースポーツの熱気は冷めなかった。国際大会が開かれるようになり、ボアヴィスタやビラ・レアルなどの古い町は市街地コースになった。新しいサーキットも整備された。

観客の多くは、フェラーリアルファ・ロメオなど、東からやってくるエキゾチックなスポーツレーサーへ魅了された。しかし、改造されたフィアット1100、508C サルーンがグリッドへ並ぶ姿へ、影響を受けた人も少なからず存在した。

そんな1人が、ディオニシオ・マテウ氏。ポルトガル中東部のボアヴィスタで、1950年に開催されたレースの優勝ドライバー、エミリオ・ロマーノ氏へ接近。彼が駆るチシタリア・アバルト204Aを売って欲しいと願い出た。

だが、ミッレ・ミリアでの経験も持つ彼は、想定外の高額を提示した。マテウの申し出を断るつもりだったのか、1951年から運転することになる、フェラーリ166の資金調達の一環だったのか、理由は定かではない。

チシタリア・シャシーでスポーツレーサー開発

それでも彼は諦めなかった。イタリア・トリノの、今はなきチシタリアへ連絡。後ろがリーフスプリングにリジッドアクスル、前がトーションバー・スプリングという構成のサスペンションを持つ、チューブラーフレーム・シャシーを購入する。

エンジンは、イタリアのチューニングガレージ、スタンゲリーニ社から調達。独自設計の吸気マニホールドと、2基のソレックス・キャブレターがフィアットの4気筒ユニットへ与えられ、66psの最高出力を発揮した。

ディマ1100(DM/1951年式)
ディマ1100(DM/1951年式)

1951年シーズンを視野に、マテウは準備を整えた。技術者数名へ声をかけ、部品の手配や製造を依頼。また彼自身も、自宅で複数の部品を製作したようだ。エリシオ・デ・メロ氏とジュリオ・シマス氏を、チームのパートナーとしても迎えた。

アルミニウム製ボディを手掛けたのは、オート・フェデラル社。職人がハンマーを叩き、艷やかな曲面を生み出した。

かくして完成したのが、シンプルなシルエットのスポーツレーサー、ディマ1100。格子状のフロントグリルの両脇へ、丸いヘッドライトが並んだ。フォルムは、チシタリアへ影響を受けたものといえた。

同時期にポルトガルで作られた別のスポーツレーサー、フィアット・アドラー・パリニャスとも似ていた。経験を積んだドライバー、フェルナンド・パリニャス氏が、1950年のボアヴィスタで、ロマーノに次ぐ2位を掴んだマシンだ。

興味深いことに、アドラー・パリニャスは、1951年に別のアルミ製ボディへ載せ替えられている。こちらは、同時期のオスカへ似ていた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

現存1台のディマ1100の前後関係

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