デビュー戦から「1-2」フィニッシュ! 現存1台のディマ1100(1) フィアットの4気筒でGPへ

公開 : 2024.07.27 17:45

デビュー戦から1-2フィニッシュ

1951年3月11日、ポルトガル・リスボン近郊のアラビダ公園で開かれたのが、カンピオナート・ナシオナル・デ・ランパというレース。マテウはこれに合わせて、2台のディマ1100を仕上げた。

真っ赤に塗装されたスポーツレーサーは、見事にデビュー戦で1-2フィニッシュ。北部のファルペラという町で開かれたヒルクライム・レースでも、優勝を勝ち取った。

ディマ1100(DM/1951年式)
ディマ1100(DM/1951年式)

昇り調子を掴んだマテウは、6月のポルトガル・グランプリを想定し、3台目も製作。有望な若手ドライバー、フランシスコ・コルテ=レアル・ペレイラ氏を加え、多くの注目を集めた。

ポルトガル・グランプリでは、フェラーリ166 MMやジャガーXK120などが上位争いを繰り広げたが、そこへディマ1100も参戦。26台が市街地で速さを競うドラマを、大勢の観衆が見届けた。

市立公園の周囲を回るコースは、全長7.4kmほど。美しい景観が自慢といえたが、舗装は石畳で、路面電車の線路が交差し、ドライバーが眺めている余裕はなかった。

3時間という長丁場で、ドライバーの1人、デ・メロは姿勢を崩しスピン。干し草のブロックへ衝突し、横転してしまう。幸いにも目立った怪我はなかったが、マシンは大破しリタイアへ追い込まれた。

続くようにシマスもリタイアする一方、ペレイラは完走。アバルトを抑えて、クラス優勝を掴み取った。クラス上のマシン、2台のアラードJ2と1台のドラージュD6-3Lにも勝っている。

楽観的に量産モデルの開発へ着手

翌1952年シーズンも、ディマ1100による積極的な戦いは続いた。損傷したボディを修復する傍らで、エアインテークとフェンダー・ラインを改良。空気抵抗の低減が図られつつ、マシンはDMと呼ばれるようになった。

またライバルチームだった、フランスのパナールは、スタイリングが似ていることへ抗議。差別化するため、マテウはボンネット上にあったエアインテークをオフセットさせ、特徴的な姿が作られた。

ディマ1100(DM/1951年式)
ディマ1100(DM/1951年式)

ドライバーも交代。シマスに代わり、ジョアキン・フィリペ・ノゲイラ氏が招聘された。ちなみに彼は、後にF3へステップアップしている。

ポルトガル・ボアヴィスタの市街地コースを舞台にした、1952年のボアヴィスタ・グランプリでは、同クラスのライバルチームが軒並みリタイア。ノゲイラは最下位だったが、3台のDMは1100cc以下でクラス優勝。1-2-3フィニッシュという栄光に輝いた。

モータースポーツでの活躍により、マテウ・ブランドの知名度も拡大。シムカとオースチンのエンジンや、フィアットのチューニングパーツをポルトガルで販売できる契約を結ぶに至った。

さらにマテウは、楽観的に量産モデルの開発にも着手。仕事は速く、1953年にはスポーツレーサーのような一体ボディが被された、ファストバック・クーペが試作されている。柔らかなクリーム色に塗装されて。

この続きは、現存1台のディマ1100(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

現存1台のディマ1100の前後関係

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