「純粋さ」を物語る無駄ないフォルム 現存1台のディマ1100(2) モータースポーツへの相当な熱量

公開 : 2024.07.27 17:46

とあるポルトガル人がチシタリアのシャシーで製作した、1100ccのスポーツレーサー デビュー戦から1-2フィニッシュ 量産モデルへ着手するものの4年で終止符 英編集部が貴重な1台を解説

4年で終止符が打たれたマテウのビジネス

1953年のポルトガル・グランプリと同時に開催されたスプリントレースでは、1100ccクラスへ15台が参戦。前年以上に熱い戦いが繰り広げられた。

格上といって良かったパナールの他、パワフルなポルトガル勢もグリッドに並んだ。DMからフェラーリ225 Sへ乗り換えたドライバー、ジョアキン・フィリペ・ノゲイラ氏も、ライバルになった。

ディマ1100(DM/1951年式)
ディマ1100(DM/1951年式)

対するDMは若手ドライバーを招き、4台体制で予選を通過。本戦では、ドゥアルテ・ロペス氏が4位、フェレイラ・バプティスタ氏が8位、フェレイラ ダ・シルバ氏が13位でフィニッシュ。先輩のジュリオ・シマス氏は、機械的な不調でリタイアに喫した。

既に、DMの競争力不足は否めなかった。最後まで下位集団から抜け出せず、750ccクラスのマシンと比べても、1時間15分のレースで2周多く走れただけだった。

リスボン郊外に完成した、新しいモンサント・フォレストパーク・サーキットでも、DMは上位争いに加われなかった。量産モデルを展開するというディオニシオ・マテウ氏のアイデアも、フェードアウトしていった。

1954年は、一層戦いが激化。ポルトガル勢もポルシェを手配し、1.5L以下へ再編されたクラスで、DMが表彰台へ近づける見込みは薄かった。シーズンでの最高位は、クラス6位。僅か4年で、マテウのモータースポーツ・ビジネスには終止符が打たれた。

3台のレーシングカー、DMの行方はわからない。しかし1台だけ、1951年のポルトガル・グランプリで横転した車両は生き残っている。

目指された純粋さを物語る無駄のないカタチ

当初からDMの前身、ディマ1100をドライブしてきたエリシオ・デ・メロ氏は、その後にLF-11-52のナンバーで登録されたマシンを入手。オーナーとなり、20年間ほどポルトガルで開かれるヒルクライムやラリーイベントへ参戦した。

彼が手放すと、建築家でポルトガル自動車協会会長も務めたアントニオ・カルドーゾ・リマ氏が購入。30年ほど状態を維持し、現在の所有者、マルガリーダ・パトリシオ・コレイア氏とペドロ・フィリペ氏がクラシック・コレクションの1台として譲り受けた。

ディマ1100(DM/1951年式)
ディマ1100(DM/1951年式)

2人は丁寧なレストアを監督。完璧な状態に復元し、近年もポルトガルの自動車イベントへ積極的に参加している。

1930年代のヒルクライム・イベントの1つ、ランパ・ドス・バレイロスを再現したクラシックカー・リバイバルで、宝石のような姿を目撃することができた。無駄のないフォルムが、開発時に目指された純粋さを物語る。

ドアはとても軽く、ダッシュボードはシンプルなアルミ製。フロントに載る小さな4気筒エンジンが、僅かにボディを震わせる。車重は約500kgと軽く、加速は活発。ショートなギア比で一気に吹け上がり、2速を飛ばして3速を選んでも問題ない。

大西洋に浮かぶマデイラ諸島、フンシャルの町の海岸線を登る。66psと限られたパワーを引き出すには、相応の回転数を保つ必要がある。アクセルとクラッチのペダルは扱いにくい。シフトレバーにも癖があるが、心地よく軽快に走らせられる。

記事に関わった人々

  • 執筆

    アーロン・マッケイ

    Aaron McKay

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

現存1台のディマ1100の前後関係

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