パトカーを圧倒した「窃盗団」の逃走車 世界最速だった4ドアサルーン ロータス・カールトン(1)

公開 : 2024.07.28 17:45

当時世界最速を誇った量産サルーン

最高速度283km/hの4ドアサルーンをショールームへ並べることは、ヴォグゾールにとっては英断といえた。1990年代のロータス・コルティナを作るというアイデアを持ちかけたのは、当時のロータスのトップにいたマイク・キンバリー氏だった。

だが、その販売を否定的に捉える国会議員がいた。1990年11月の下院では、公道での安全性に関して議論されたほど。「このクルマを安全に運転するには、(F1ドライバーの)ナイジェル・マンセル級の技術が必要です」

ロータス・カールトン(1989~1992年/英国仕様)
ロータス・カールトン(1989~1992年/英国仕様)

「最高速は時速170マイル(約273km/h)に届くようです。最近宣伝されている、ヴォグゾール・カールトンを、みなさんも非難すべきではないでしょうか?」と、別の議員からも意見が上がった。そんなに速いクルマは、必要ないといわんばかりに。

直6ツインターボエンジンを積み、当時の世界最速を誇った量産サルーンには、思いがけない逆風が吹いた。メディアからも、その性能の必要性に強い疑問が投げかけられた。技術的な傑作として、称賛されるのではなく。

当時のAUTOCARの試乗レポートも、批判的な内容でまとめられていた。タブロイド紙のデイリーメール紙と英国警察長協会が手を組み、販売禁止を求めるキャンペーンすら展開された。

とはいえ、その頃のフェラーリ348の最高速度は278km/hで、ランボルギーニディアブロは325km/hが主張されていた。上流階級が乗るようなモデルは、非難の対象にはならなかった。

パトカーを圧倒していた窃盗団の逃走車両

控え目なサルーンが驚異的な性能を持つという事実に、保守層は恐怖を感じたのかもしれない。犯罪に使われる可能性も危惧された。新車時の英国価格は4万8000ポンドと高額で、労働者階級のスーパーサルーンではなかったのだが。

1989年から1992年の約2年間に、ロータスの工場からラインオフしたカールトンは、バッジ違いの欧州仕様のオメガを含めて949台。非難は長く続かなかったが、販売は低調に終わった。

インペリアル・グリーンのロータス・カールトンと、パトカー仕様のローバーSD1 3500
インペリアル・グリーンのロータス・カールトンと、パトカー仕様のローバーSD1 3500

そして1993年の末に、1台のロータス・カールトンが無法者の手中に渡った。1994年1月7日のバーミンガムの新聞には、「世界最速の窃盗団に狙われる」という見出しで、11回もの連続強盗のニュースが掲載された。

リチャードの愛車が盗まれて以降、ウスターシャー州と隣のウェスト・ミッドランズ州では、新聞販売店やガソリンスタンド、酒店などが襲撃される事件が続いた。総額2万ポンド相当の、タバコやアルコールが被害にあっていた。

1993年12月には、破損したキャバリエが燃やされているのも発見。エスパスへ突っ込んだクルマなことは、明らかだった。世界最速のサルーンという有能な逃走手段で、窃盗団は襲撃を繰り返していたのだ。

ロータス・カールトンは、警察車両を圧倒していた。「奴らは図々しかった。40 RAのナンバープレートすら、変えていませんでした」。と元警察官のブライアン・オズボーン氏が話す。パトカーに追われることすら、楽しんでいたのかもしれない。

この続きは、ロータス・カールトン(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ロータス・カールトンの前後関係

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