「無敵」の称号だった100年前 タルボ105 エアライン(1) 奇才ロシュによる最後のサルーン

公開 : 2024.08.04 17:45

奇才のロシュが手がけた最後のタルボが105 亡くなった祖父の夢をオークションで落札 21歳の若さで取り組んだレストア ペブルビーチでクラス3位の偉業を掴んだ1台を、英編集部がご紹介

無敵のタルボという称号を得ていた戦前

知る人ぞ知るという存在だが、かつての欧州には、タルボという優れた自動車メーカーがあった。ロンドン・タルボ・カンパニーの創業者は、第20代シュルーズベリー伯爵。特に第二次大戦前は、素晴らしい歴史を残している。

当初は、クレマンというフランス車を輸入し、クレマン・タルボとして英国で販売していた。だが1906年に独自モデルの製造を開始。荒野を走るトライアル・レースなどで、他ブランドが羨むような成績を残していった。

タルボ105 B1 エアライン(1935〜1937年/英国仕様)
タルボ105 B1 エアライン(1935〜1937年/英国仕様)

1913年のブルックランズ・サーキットでは、レーシングドライバーのパーシー・ランバート氏が、軽くチューニングされたタルボをドライブ。60分で100マイル(約161km)を走りきった、最初の英国人になった。

スイス生まれの奇才、ジョルジュ・ロシュ氏が1914年にモデル開発へ加わる頃には、「無敵のタルボ」という称号を得るまでに至っていた。ところが1919年、タルボはフランスを拠点とする英国資本のブランド、ダラックによって買収される。

そこで、経営のトップはルイ・コアタレン氏へ交代。フランス製のダラックを、タルボ・ダラックとして販売し始めた。その後にサンビームとも合併し、STDグループへ改称されると、ダラック・ブランドはフランス市場から完全に姿を消した。

他方、軽量・高品質な設計を得意とするロシュは、洗練された6気筒エンジン・モデルを生み出し経営を支えた。最初の目標とされたのが、当時のロールス・ロイスに匹敵する、正確な操縦性を叶えることだった。

毎週50台という量産体制が組まれた1927年

かくして、1926年に発売されたのが、タルボ14/45。動力源は直列6気筒の1666ccプッシュロッド・エンジンで、不気味なほど静かに回り、当時としては高回転域の4500rpmまで許容した。クロスブレースが組まれたシャシーは、剛性が高かった。

初めて標準でウインカーを得た量産車でもあり、発電を担うダイナモとスターターモーターを兼ねた「ダイナモーター」は新技術。ロールス・ロイスより大幅に安く、14/45は市場の人気を獲得し、1927年までに毎週50台という量産体制が整えられた。

タルボ105 B1 エアライン(1935〜1937年/英国仕様)
タルボ105 B1 エアライン(1935〜1937年/英国仕様)

先見的でもあったロシュは、STDグループの投資が適切に集中できていない状況へ疑問も抱いていた。そこで14/45は、大幅なアップデートの可能性も考慮し設計された。

1931年には、マイナーチェンジ版といえるタルボ105が登場。1935年まで生産されている。これは、戦前のヴィンテージ・モデルでも、特に偉大な1台に数えられるだろう。

結果として、サルーンやクーペ、ツアラー、カブリオレなど多様なボディスタイルへ対応。発売から約10年、基本的なコンセプトが通用したといえる。

2969ccエンジンを搭載した105は当初、ホイールベースが2920mmのシャシーで展開。気流に配慮された吸気マニフォールドと、48mmのゼニス・キャブレターが組まれ、圧縮比は10:1で142psを発揮した。

105のワークスマシンは、1932年の北アイルランド・アルスターTTレースや英国ブルックランズ500レースで優勝。フランスのル・マン24時間レースも3位と4位で完走したほか、1932年と1934年のアルペン・ラリーでも勝利している。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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