「無敵」の称号だった100年前 タルボ105 エアライン(1) 奇才ロシュによる最後のサルーン

公開 : 2024.08.04 17:45

奇才のロシュが手がけた最後のタルボ

コーチビルダーのヴァンデンプラ社製オープンボディを載せた3台のワークスマシンは、圧縮比が向上していたこと以外、量産仕様のままといって良かった。燃料タンクは、大容量のものが標準装備だった。

クルマ好きだった貴族、アール・ハウ氏は、アルファ・ロメオブガッティと同列に、誇るべき英国車として扱ったほど。105が参戦した25戦中、リタイアは4回だけだった。

タルボ105 B1 エアライン(1935〜1937年/英国仕様)
タルボ105 B1 エアライン(1935〜1937年/英国仕様)

ルーツ兄弟が経営を引き継いだ頃、ロシュは独立懸架式サスペンションを備えた、新しいバックボーンシャシーの開発を進めていた。だが、量産には至らなかったようだ。

進化版のタルボ110は、1933年に登場。エンジンは3377ccへ拡大され、1936年から1937年まではタルボ3 1/2リッターの名で販売された。だが、ワイドレンジのトランスミッションや豪華装備で、身軽さが損なわれていた。リムジンも選ぶことができた。

他方、車高を落としパワーアップされた105 B1は、1934年にデビュー。ロシュが手がけた最後のタルボとして、マニアから高く評価されている。

この105 B1では、シャシーのサイドメンバーへ十字状に組んだパイプを追加し補強。半楕円リーフスプリングが前後に組まれ、冷却フィンの付いたアルミ製ドラムブレーキは大径化された。

トランスミッションは、ロシュ自らの設計による遠心クラッチと遊星ギアを備えた、プリセレクター・マニュアル。オートマティックの前進といえ、アイドリング時は自動的にクラッチが切れ、運転の負荷を減らした。

公道を走れない状態へ劣化していた1台

1935年には、サルーンの105 1B エアラインが発売される。荷室内には高品質な工具を搭載し、ジャッキも内蔵され、英国価格は625ポンド。ルーフは金属製のスライディング仕様という、上級モデルだった。

当時は、各部への定期的な注油が不可欠だったが、先進的な集中注油システムを採用。サスペンションやステアリングラックも、常にオイリーな状態が保たれた。

タルボ105 B1 エアライン(1935〜1937年/英国仕様)
タルボ105 B1 エアライン(1935〜1937年/英国仕様)

ボディを製造したのは、コーチビルダーのジェームスヤング社とヴァンデンプラ社。だが、1930年代の流線型が強く意識されたスタイリングを描き出したのは、ロシュ本人だった。大陸を縦断し、バカンスを謳歌するためのクルマとして。

105 B1は合計97台が作られているが、DLP 937のナンバーで登録されたシャシー番号4065のエアラインは、1936年12月にラインオフ。牛乳を低温殺菌する機械を開発した発明家、イノック氏へ納車された。

1938年に、経済学者のウィリアム・ジョン・エヴァンス氏が購入。第二次大戦後はイタリア人がオーナーになるが、1957年にグレートブリテン島へ戻ってきている。

1960年代には3名のオーナーを転々とし、どこかの時点で結婚式を祝うウェディングカーとしてホワイトへ塗装。1976年にコーチビルダーのジャック・キャッスル氏が発見した時点では、酷く傷んだ状態にあったようだ。

彼はボディフレームの交換など、ある程度のレストアを施した。それでも売却される34年後には、公道を走れない状態へ劣化していた。そのまま放置され、2017年にオークションへの出品が決まった。

この続きは、タルボ105 エアライン(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

タルボ105 エアラインの前後関係

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