公道で乗りやすくサーキットも有利! ヒーレー・シルバーストン(1) 部品の総和以上の完成度

公開 : 2024.08.24 17:45

限られた予算で、革新的なスポーツレーサーを生み出したヒーレー サルーンをベースにコンポーネントの総和以上の仕上がり モータースポーツを志す人を支えた1台を、英編集部がご紹介

限られた開発予算 革新性すら備えたマシン

1945年に第二次大戦が集結すると、英国では10年ほどの間に11か所のサーキットが次々とオープンした。グッドウッドにキャッスルクルーム、スラクストン、スネッタートンなど、その殆どは、不要になった軍の飛行場が転用された。

1950年代が始まる頃には、本格的な設備も整えられた。国際イベントの開催が可能な場所も登場する一方、アマチュアドライバーによるクラブマンレースも積極的に開かれた。そんな中で、特に注目を集めたのがシルバーストン・サーキットだろう。

ヒーレー・シルバーストン(1949〜1950年/Eタイプ/英国仕様)
ヒーレー・シルバーストン(1949〜1950年/Eタイプ/英国仕様)

グレートブリテン島の中南部に位置し、1950年には初のF1世界選手権として、英国グランプリが開催されている。この記念すべき大会では、イタリアのレーシングドライバー、ジュゼッペ・ファリーナ氏が世界初となるF1のポイントを獲得した。

この場所の名前が与えられた、スポーツレーサーも作られている。今日の筆者がステアリングホイールを握っているのが、まさにそれ。北側のストレートから、コプス・コーナーへ突っ込む。興奮するなといわれても、難しい。

1950年は、2024年とレイアウトがだいぶ違っていた。しかし、ヒーレー・シルバーストンは74年前の姿のまま。生産数は、後にコンバージョンされた3台も含めて108台と多くはなかったが、戦後のクラブレース界へ与えた影響は巨大だった。

パワートレインは、特別とはいえなかった。一般的なアイテムを組み合わせつつ、ドナルド・ヒーレー氏の限られた開発予算で、革新性すら備えるマシンが創出された。

ラリー・モンテカルロで優勝したキャリア

自宅からサーキットまで快適に運転でき、そのままレースイベントへ参戦。完走した後は、再び自宅まで平穏に帰ることができた。英国価格は1000ポンドを切り、アマチュアドライバーにとっては、非常に魅力的な選択肢になった。

グレートブリテン島南西部、コーンウォール州に生まれたヒーレーは、幼い頃から飛行機に憧れていた。第一次大戦では、パイロットとして出撃。任務後は、航空省の地上部隊に就いた。

ヒーレー・シルバーストン(1949〜1950年/Eタイプ/英国仕様)
ヒーレー・シルバーストン(1949〜1950年/Eタイプ/英国仕様)

平和が戻ると、彼は帰郷。コーンウォール州の北岸、ペランポースの町に自身のガレージを開設する。刺激を求めて参戦したラリーイベントで頭角を現し始め、1920年代に実力を磨いていった。

レーシングドライバーとしてキャリアの頂点に達したのは、ラリー・モンテカルロへ挑んだ1931年。過去最も過酷な内容となったが、4.5Lエンジンのインヴィクタで、優勝を掴んでいる。

業界から注目を集めるようになった彼は、自動車メーカーのライレーへ就職。その後、トライアンフへ移ると技術主任へ昇格し、スポーツカーのドロマイト・ストレート8やサザンクロス、グロリアなどの開発へ携わった。

ところが、1939年にトライアンフは倒産し、自動車メーカーのスタンダードが買収。第二次大戦を挟みヒーレーは独立を決め、技術者のアキレ・サンピエトロ氏とベン・ボウデン氏を招き入れ、1946年にドナルド・ヒーレー・モーター社を立ち上げる。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ヒーレー・シルバーストンの前後関係

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