ベースは自社初のサルーン ヒーレー・シルバーストン(2) アマチュアドライバーを支えた傑作

公開 : 2024.08.24 17:46

限られた予算で、革新的なスポーツレーサーを生み出したヒーレー サルーンをベースにコンポーネントの総和以上の仕上がり モータースポーツを志す人を支えた1台を、英編集部がご紹介

平面パネルがほぼない滑らかなボディ

ヒーレー・シルバーストンの前後のタイヤは、カーブを描くサイクルフェンダーが覆う。最高出力は控え目だが、空気抵抗の小さいボディがそれを補った。フロントノーズから、スペアタイヤがバンパーを兼ねるテールエンドまで、平面のパネルはほぼない。

シルバーストンのデビュー戦は、1949年のフランス・アルペンラリー。「過酷なイベントで、ドナルド・ヒーレー氏はミステリアスなスタイリングの新しいヒーレーを運転。他のドライバーや観衆を驚かせました」

ヒーレー・シルバーストン(1949〜1950年/Eタイプ/英国仕様)
ヒーレー・シルバーストン(1949〜1950年/Eタイプ/英国仕様)

「しかし、優勝したシトロエンに次ぐ2位でゴールし、尊敬を集めています。新しいモデル、シルバーストンが誕生したようです」。と、その頃のモータースポーツ誌は紹介している。

さらに、シルバーストン・サーキットで開かれた、デイリーエクスプレス・プロダクションカー・レースにも参戦。レーシングドライバーのトニー・ロルト氏と、ルイ・シロン氏、トミー・ウィズダム氏による3台態勢で挑んだ。

結果は、総合4位と6位、17位。2.5Lクラスでは、2位と、4位、5位に入った。優勝は逃したものの、チーム賞を掴んでいる。

市販モデルでは、グリーンとレッド、ブルーの3色を塗装色として設定。インテリアは、レッドかベージュから選択可能だった。

後にF1ドライバーになるトニー・ブルックス氏も、週末に乗るクルマとして、母親の協力を得てシルバーストンを購入している。彼の輝かしいキャリアが、そこから始まったと表現しても過言ではない。

サルーンのティックフォードから改造

1920年生まれのレーシングドライバー、ジェームズ・ダンカン・ハミルトン氏も、1950年8月のプロダクション・スポーツカー・レースへ、シルバーストンで参戦。彼は、このモデルの進化に少なくない貢献を果たした。

初期のDタイプと呼ばれるボディは、コクピットが狭く、体格の大きいハミルトンには不向きだった。そこでヒーレーが用意したのが、後期型となるワイドボディのEタイプだったのだ。

ヒーレー・シルバーストン(1949〜1950年/Eタイプ/英国仕様)
ヒーレー・シルバーストン(1949〜1950年/Eタイプ/英国仕様)

Dタイプのシルバーストンは1949年から51台が製造され、1950年4月からはEタイプが標準仕様に。ボンネットに追加されたエアインテークがわかりやすい違いで、ステアリングコラムは調整可能になり、バケットシートが備わる点も特徴となった。

今回、筆者がシルバーストン・サーキットで運転させていただいたのも、後期のEタイプ。現在のオーナー、ウォーレン・ケネディ氏は、35年間も放置されていた1台を15年前に購入したそうだ。

本来はシャシーを共有し、1950年に発売されたヒーレー・ティックフォードと呼ばれるサルーンだったらしい。シルバーストンへ後にコンバージョンされた、3台のうちの1台となる。

ケネディは、7年前に徹底的なレストアへ着手。その際、エンジンをアップグレードし、新車時のオプションだったウェイド社製スーパーチャージャーの搭載を決めた。バルブの動きを安定させるため、カムフォロワーには強力なリターンスプリングも組まれた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    トニー・ベイカー

    Tony Baker

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ヒーレー・シルバーストンの前後関係

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