100台以上の「跳ね馬」を所有した父 フェラーリ250 GT ルッソ 娘が継いだプロトタイプ(1)

公開 : 2024.09.22 17:45

1962年のパリ・モーターショーで発表された、麗しい250 GT ルッソ 100台以上のフェラーリを所有した父 世界中から部品を集めてレストア 貴重なプロトタイプを英国編集部がご紹介

スティーブ・マックイーンも大切にしたクーペ

たおやかな曲線美をまとう、フェラーリ250 GT ルッソ。ここまで優雅なクルマは、決して多くない。イタリア・トリノのピニンファリーナ社がデザインを手掛け、モデナのカロッツェリア、スカリエッティ社が製造したボディには、純粋さが漂う。

同時期には、もっとパワフルで、もっとアグレッシブなフェラーリも存在した。生産数は、アストン マーティンDB4やDB5より遥かに少ない351台。活発な走りをイメージさせるが、同時にラグジュアリーさに満ちている。

フェラーリ250 GT ルッソ(プロトタイプ/1962年式)
フェラーリ250 GT ルッソ(プロトタイプ/1962年式)

銀幕の大スター、スティーブ・マックイーン氏も、妻がプレゼントしてくれた250 GT ルッソを大切にしていた。熱狂的なフェラーリ・マニア、スティーブン・ピルキントン氏を父に持つスージー・ピルキントン氏も、深く理解し、家族のように扱っている。

彼女の曽祖父に当たるリチャード・ピルキントン氏は、グレートブリテン島中西部、ボルトンの町で自動車の整備工場を創業。1920年代にはモーリスのディーラーとなり、ビジネスを発展させた。

リチャードの息子が経営を継いでからも、ディーラーは好調だった。ラリーやスプリントレースなどにも、積極的に挑んだという。

その後、父のスティーブンへバトンタッチ。現在は既に事業から引退したが、今でも英国ではフェラーリの第一人者として知られる人物だ。魅力的な跳ね馬を、これまで何台も所有してきた。

100台以上のフェラーリを所有していた父

「父は初め、エレクトロニクスの技術者でした。クルマが大好きで、定期的に売買することはあったようですね」

「ところが、わたしの弟が生まれる頃に、他人のために働くことは自分に向いていないと考えたそうです。それから、本格的にクルマの取り引きが始まりました」。スージーが振り返る。

フェラーリ250 GT ルッソ(プロトタイプ/1962年式)
フェラーリ250 GT ルッソ(プロトタイプ/1962年式)

「母は、出産へ不安と期待を膨らませている時期でした。父はキャリアを積んでいたので、歓迎される決断ではなかったですね。1971年のことでした」

スティーブンは、ベントレーロールス・ロイスなど、高級車を中心に取り扱った。中でも、フェラーリには特別な思い入れがあったらしい。

「以前から父は、フェラーリの技術が好きだと話していました。形や音も。お金儲けのために、仕事をしていた感じではなかったです」

不意に世界を襲ったCOVID-19によるロックダウンの中、スージーは古い領収書や請求書、写真などの整理を始めた。そこで、スティーブンが100台以上のフェラーリを所有していた過去を知ったという。

基本的には転売前の一時的なものだったが、中には自分のクルマとして長期間乗られていた個体もあった。最初のフェラーリは、1970年に購入した右ハンドルの250 GTEだったそうだ。

「ブルーのボディで、フロアが酷く錆びていました。リアシートへ座れないくらい」。それでも、このブランドへ強く惹かれた父は、250シリーズだけでも50台近くを取引した。ここには、2+2の250 GTEも複数台が含まれていた。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジェームズ・ページ

    James Page

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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