違いは「ツイン」テールライト フェラーリ250 GT ルッソ 娘が継いだプロトタイプ(2)

公開 : 2024.09.22 17:46

1962年のパリ・モーターショーで発表された、麗しい250 GT ルッソ 100台以上のフェラーリを所有した父 世界中から部品を集めてレストア 貴重なプロトタイプを英国編集部がご紹介

発表は1962年のパリ・モーターショー

フェラーリ250 GT ルッソのホイールベースは、2400mm。シャシーの技術的には近い250 GTEは2600mmだが、ショートホイールベース仕様や250 GTOと同値だった。

3.0L V型12気筒のティーポ168エンジンには、3基のウェーバー・キャブレターが載り、最高出力は253ps。トランスミッションはオールシンクロの4速マニュアルで、ブレーキはダンロップ社製のディスクが組まれている。

フェラーリ250 GT ルッソ(プロトタイプ/1962年式)
フェラーリ250 GT ルッソ(プロトタイプ/1962年式)

リアサスペンションは、リジットアクスル。だが250 GTOと同様に、横方向のワットリンケージで安定性を高めた。

発表されたのは、1962年のフランス・パリ・モーターショー。当時のフェラーリの資料では、「最高の快適性と安全性で、非常に高い最高速度と巡航速度を可能とするグランドツーリング・クーペ」だと、250 GT ルッソを紹介している。

もちろんフェラーリは、当時もモータースポーツで広く活躍していた。ルッソのシャシーは、国際クラスのサーキットレースやラリーで得た技術的な教訓が活かされている、とも主張された。広い車内空間や、エレガントなインテリアと一緒に。

バラバラ状態のフェラーリの購入をスティーブン・ピルキントン氏が決めた時、保管されていたのはアメリカだった。「以前のオーナーは、レストアする計画だったようですが、最後までそのままでした」。と彼の娘、スージー・ピルキントン氏が説明する。

特徴はツイン・テールライト

グレートブリテン島へ運ばれてきた、フェラーリのシャシー番号は4053GT。2台が作られたプロトタイプの1台だった。1962年のパリでお披露目された250 GT ルッソそのもので、パンフレットや広告にも利用されている。

スティーブンは、購入時にその可能性を知っていた。しかし、いくつかの情報が交錯し、定かではなかった。そこで研究熱心なスージーは、真実を明らかにするため情報集めに乗り出したそうだ。

フェラーリ250 GT ルッソ(プロトタイプ/1962年式)
フェラーリ250 GT ルッソ(プロトタイプ/1962年式)

フェラーリの製造記録によると、シャシー番号4053GTは1962年9月にラインオフ。グリージョと呼ばれるシルバーの塗装に、ペッレネラというブラックのレザー内装で仕立てられていた。量産仕様とは異なる、ツイン・テールライトが特徴だった。

1962年10月4日から14日まで開催されたパリ・モーターショーの写真には、このディティールを備える250 GT ルッソが映っている。もう1台、シャシー番号3849GTは先に製造が始まっていたが、完成したのはなぜか10月中旬だった。

この3849GTは、イエローのジャッロ・ソラーレで塗装。10月31日から開催された、イタリア・トリノ・モーターショーへ出展された。同じくツイン・テールライトだったが、ボディカラーとラインオフの時期から、これらは間違いない情報だと考えられる。

フランスのフェラーリ研究家、アントワーヌ・プルネ氏とジェス・プーレ氏も、パリに展示された個体はシャシー番号4053GTで間違いないと考えている。1962年12月に250 GT ルッソを扱ったフランスのディーラーで、プーレは営業部長を努めていたのだ。

記事に関わった人々

  • 執筆

    ジェームズ・ページ

    James Page

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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