これぞ100年前の技術的頂点 ベントレー 4 1/2リッター(1) ル・マン24時間レースとの深い関係

公開 : 2024.09.28 17:45

ル・マン24時間レースへ初回から挑んだベントレー 1929年に完走を果たし、技術的頂点にあった4 1/2リッター 唯一の「本物」コンディションを維持 超貴重な1台を英国編集部がご紹介

ル・マン24時間レースとベントレーの深い関係

「こんなレースはクレイジーですよ。誰も完走できないでしょう。24時間も高負荷に耐えられるようには、設計されていません」

フランスのサルト・サーキットで開催されるル・マン24時間レースと、深い関係を築いたベントレー。名門ブランドを創業したウォルター・オーウェン(WO.)・ベントレー氏が、1923年の初戦前に発言した内容だ。1958年の自伝に記されている。

ベントレー 4 1/2リッター(1928年式/ル・マン仕様)
ベントレー 4 1/2リッター(1928年式/ル・マン仕様)

同社の代理人だったジョン・ダフ氏へ背中を押されなければ、記念すべき第1回へエントリーした、ベントレー 3リッターのサポートをWO.ベントレーは考えなかったかもしれない。しかし、4位タイでの完走を知ると、彼は耐久レースへのめり込んでいった。

その後、ワークスチーム態勢で積極的に挑み、5度も優勝。世界一過酷ともいわれるその歴史へ、ベントレーは古くから名を刻んできた。

今回ご紹介するYW 5758のナンバーで登録されたマシンは、1928年式。英国のコーチビルダー、ヴァンデンプラ社製のボディを架装する、4 1/2リッターだ。

現存するWO.ベントレー時代のワークスマシンでも、特に多くの成功を残した1台として、マニア間では広く知られた存在にある。ル・マンだけでなく、ブルックランズ・サーキットなどでのイベントでも、素晴らしい成績を勝ち取ってきた。

だが、このクルマが戦っていた時代のベントレーは、資金不足に悩んでいた。経営手腕以上に野心の大きかったWO.ベントレーは、1919年の創業から6年後、1925年には出資者を幅広く募っていた。

先進的なオーバーヘッドカムのモジュラー構造

ベントレーを駆ったレーシングドライバー、ウルフ・バーナート氏からの援助を得たのは、その2年後。裕福な彼は、ブランドと多くの従業員を、短期間ながら救済することになった。

1920年代半ばには、3リッターはヴォグゾール30-98など、いくつかのモデルとの厳しい競争へさらされていた。彼の資金で、WO.ベントレーは後継モデルの開発へ再び注力することが可能になった。

ベントレー 4 1/2リッター(1928年式/ル・マン仕様)
ベントレー 4 1/2リッター(1928年式/ル・マン仕様)

導かれたのが、6.6L直列6気筒エンジンを積んだ6 1/2リッターと、4.4L直列4気筒の4 1/2リッターという2モデル。この2種類のユニットは気筒違いのモジュラー構造で、100mmのシリンダーボアと140mmのストロークが共通していた。

モノブロックでオーバーヘッドカムの設計や、1気筒当たり4バルブの構成は、当時としては先進的なもの。多くのライバルは、吸排気ポートがシリンダーの横に並ぶサイドバルブで、2バルブ構成が一般的だった。

4398ccの排気量から得た、量産仕様の最高出力は111ps。だが、レース仕様では131psまで引き上げられていた。

1927年に発表された4 1/2リッターのシャシーは、ホイールベース3302mmの3リッターがベース。それでもステアリングやブレーキは改良を受け、先代より遥かに優れた性能を得ていた。

6 1/2リッターより軽量で、操縦性は良好。ベントレーの当時のラインナップでは、ベストといえるモデルだった。さらに4.4Lユニットは耐久性が極めて高く、現役時代のレースで故障したのは1度のみだといわれる。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ベントレー 4 1/2リッターの前後関係

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