これぞ100年前の技術的頂点 ベントレー 4 1/2リッター(1) ル・マン24時間レースとの深い関係

公開 : 2024.09.28 17:45

速くてもレースで勝てなかったブロワー

完成度の高さから、WO.ベントレーは必要以上のパワーアップに否定的だった。その一方で、ベントレー・ボーイと呼ばれたヘンリー・ティム・バーキン氏は、リードできるスピードが出れば充分という、彼のレース戦略には納得していなかった。

バーキンは裕福な競走馬オーナーに加えて、ベントレーの会長へ就任したバーナートの援助を受け、4.4Lエンジンのパワーアップを希望。スーパーチャージャーの搭載方法を、技術者のアマースト・ヴィリアーズ氏へ依頼した。

ベントレー 4 1/2リッター(1928年式/ル・マン仕様)
ベントレー 4 1/2リッター(1928年式/ル・マン仕様)

レース参戦には50台の量産が必要だったが、4.4Lエンジンはスーパーチャージャーで131psから177psへパワーアップ。相当に速い、ベントレー・ブロワーが誕生した。

ただし、ブロワーはレースで勝てなかった。1929年のブルックランズ6時間レースでは、圧倒的なスピードで観衆を驚かせたもののリタイヤ。6.6Lエンジンのスピードシックスが余裕で勝利し、YW 5758の4 1/2リッターも3位でフィニッシュしている。

ル・マン24時間レースへは、1930年に参戦。ワークスマシンのブロワーとスピードシックスという、ベントレー同士の高速対決が話題を集めた。

かくして、優勝と2位を掴んだのはスピードシックスだった。2台態勢のブロワーは、20時間と21時間でリタイヤに喫した。

他方、1929年の世界恐慌のあおりを受け、ベントレーは経営不振が深刻化。WO.ベントレーは、ブロワーの戦績も足を引っ張ったと考えた。最終的には、1931年にロールス・ロイスによって買収されている。

技術的な頂点にあった4 1/2リッター

波乱に揉まれた4 1/2リッターだが、技術的な頂点にあったことは間違いない。誕生直後から多くのレースを戦い、最前線を退いた後も多数のイベントで勇姿を披露してきた。

1928年のラインオフ後、YW 5758の最初のオーナーになったのがハンフリー・クック氏。25万人の観衆を集めた北アイルランドのニュータウンアーズ・ツーリスト・トロフィーを戦い、クラス2位、総合7位で存在感を示した。

ベントレー 4 1/2リッター(1928年式/ル・マン仕様)
ベントレー 4 1/2リッター(1928年式/ル・マン仕様)

翌1929年は、5月10・11日に開かれたブルックランズ・ダブル・トゥエルブから挑戦。エンジントラブルでのリタイアに終わったが。

6月30日にはブルックランズ6時間レースへ挑み、クックのドライブでクラス優勝。総合でも3位に入った。7月12日にはアイルランド・ダブリンで開かれた、第1回アイルランド国際グランプリへ出場。総合5位で完走している。

続くブルックランズ500マイルレースには、YW 5758を購入したジャック・バークレー氏とフランク・クレメント氏のドライブで参戦。バークレーは、バンクカーブを全開走行中にスピンさせるが、幸い大惨事は免れた。

当時の写真を見ると、横転を恐れたバークレーがボディへ身をかがめた様子が写されている。結果的には、2人のドライバーが平均時速172.7km/hという驚異的な記録を作り、大勝利を掴んだ。

多くの戦績を残したYW 5758だが、1929年6月15・16日のル・マン24時間レース完走という結果こそ、振り返るべき最大の功績だろう。ドライバーは、ジャン・シャサーニュ氏とクレメントが務めた。

この続きは、ベントレー 4 1/2リッター(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ベントレー 4 1/2リッターの前後関係

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