911の貴重な出発点 ダイヤの原石:ポルシェ356/2(1) オーストリア生まれの「超」オリジナル

公開 : 2024.09.29 17:45

ヒトラーへ提案された100km/hの乗用車

この結果を受け、フェルディナントはアドルフ・ヒトラー氏へ接近。100km/hで走れ、燃費が14.0km/L以上の、4・5名乗りの乗用車が提案される。ターゲット層は温かいガレージを持たないため、当時の技術では空冷エンジンが必然となった。

ナチス政権の支援を受けつつ、メルセデス・ベンツによって3台のプロトタイプが完成。ボディの作りは甘く、リアウインドウはなかったが、1936年にはアイデアが現実的なカタチとして仕上がっていた。

ポルシェ356/2(1948〜1951年/欧州仕様)
ポルシェ356/2(1948〜1951年/欧州仕様)

この辺りから、フェルディナンドの息子で同じくフェルディナンドの名が与えられた、通称フェリー・ポルシェ氏もクルマ作りへ関わり始める。60台のプロトタイプが用意されると、フェリーの指揮のもと、述べ240万km以上の試験走行が実施された。

一方でフェルディナンドは、自動車の量産システムを学ぶため渡米。3万人の労働者によって年間100万台を提供するという、大規模な計画が練られた。

しかし、不幸な第二次大戦が開戦。ドイツ中北部、ヴォルフスブルクで実際に量産が始まったのは、約5万5000台のキューベルワーゲンだった。水陸両用のシュヴィムワーゲンも、約1万5000台がラインオフした。

フェルディナンドは、終戦まで軍用車両などの設計へ注力。だが連合軍による空爆を恐れ、1943年にワークショップをグミュントの使われなくなった製材工場へ疎開させる。ドイツの敗戦が決まると、ナチ党員としてポルシェ親子はフランス軍に収監された。

プロトタイプはミドシップだった356

半年後に釈放された息子のフェリーは、美しいチシタリア・タイプ360 グランプリマシンを設計。これはレースに参戦しなかったが、充分な報酬が与えられた。父のフェルディナンドは収監が続くが、そこでルノー4CVの設計に携わった。

その後、ポルシェ家によって保釈金が支払われ、フェルディナンドも釈放。グミュントへ戻ると、フェリーが新しい356の設計へ没頭していた。

ポルシェ356/2(1948〜1951年/欧州仕様)
ポルシェ356/2(1948〜1951年/欧州仕様)

フォルクスワーゲンの部品を流用しつつ、エンジンはミドシップ。複雑なスペースフレーム・シャシーが特徴といえた。この初期のプロトタイプは、ポルシェが現在も大切に保管している。

そこから量産車へ展開するに当たり、ポルシェ親子は過去の設計に則ったレイアウトへ変更。フォルクスワーゲン由来の水平対向4気筒エンジンとトランスミッションがリアに載る、モノコックシャシーが採用された。かくして、今回の356/2へ至る。

構造は簡潔で安価。実用性も高められ、シートの後方には広い荷室も備わった。

資金難に苦しんでいたオーストリア政府は、外貨獲得のため、輸出を条件としつつ356/2の生産を1948年に認可。ワークショップは手狭で、地元のサプライヤーの協力を得ながら、合計52台がラインオフしている。

その内、クーペは44台。ロードスターも8台が作られた。

ポルシェ親子は1951年にドイツ・シュツットガルトへ戻り、ツッフェンハウゼン工場を準備。月産60台という、356の本格的な量産が始まった。

この続きは、ダイヤの原石:ポルシェ356/2(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マット・プライヤー

    Matt Prior

    英国編集部エディター・アト・ラージ
  • 撮影

    ジャック・ハリソン

    JACK HARRISON

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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