初開催の日本GPは「喜劇」のよう 名門鈴鹿サーキット「混乱の1963年」を振り返る 歴史アーカイブ

公開 : 2024.10.03 18:05

経済成長真っ盛りの1963年に鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリ。運営サイドが不慣れなこともあり、車両検査、ドライバー検査、レース、表彰台など多くの面で「トラブル」が起きた。当時の記事を振り返る。

戦後日本初の本格的な四輪レース

「初めて」のことに挑戦するのは簡単なことではない。周囲に経験者がいれば、なおさらやりづらい。1963年5月、経済成長著しい日本で初めて国際グランプリを開催した日本自動車スポーツ協会(JASA)の苦境に、少しは同情してほしい。

舞台となったのは、わずか8か月前にオープンしたばかりの鈴鹿サーキットだ。ホンダは、二輪車の試験場としての使用を想定していたこともあり、サーキットの建設に一切の費用を惜しまなかった。

1963年5月に開催された日本グランプリ。規則もまだ曖昧なところが多かったようだ。
1963年5月に開催された日本グランプリ。規則もまだ曖昧なところが多かったようだ。

しかし、当時の鈴鹿を訪れたAUTOCAR誌はこう評している。「充実した設備、国際色豊かなドライバーとマシン、そして効率的なレース計画にもかかわらず、観客を引きつけるものはほとんどなかった」

各日のトップクラスのレースは完璧に行われたが(ロータス23が表彰台を占領した)、サポートレースは完全に混乱していた。

「車両検査では、(FIAの)レギュレーションに準拠しているかどうかを確認するための努力が払われなかった。通常は3速トランスミッションを搭載しているマシンが堂々と4速を積んでいても、何も注意されなかった」

「また、機械式燃料ポンプに加え、電気式ポンプを2基搭載しているマシンもあった。何台かのマシンは、検査後にバンパーやグリルを取り外したり、フロントガラスを変えたりしていた」

チーム代表者らの抗議によって再検査が行われたが、JASAはまだ徹底できていなかった。そして、日本メーカーが「あらゆる種類のギアとアクスル比」を認められ、公正公平なレースを妨げていることが明らかになると、市販のツインキャブ仕様のミンクスをエントリーできないと言われていたヒルマンが、重量と乗車定員以外の抗議は受け付けないと発表した。

さらに、英国人ドライバーの1人は、誰も医療診断書や国際競技ライセンスの提示を求めなかったと語っている。実際、少なくとも2人のドライバーがライセンスを持っておらず、1人はサーキットでレースをしたことすらないと言うのだ……。

これがツーリングカークラスでの「ドラブル続出」につながったのかもしれない。100台中23台がプラクティスでリタイアし、そしてレース本番でも同数がリタイアして、多くのドライバーが強制的にレースから降ろされたと不満を漏らした。

1300cc以下のGTレースは5台による熱戦が繰り広げられたが、10周目にはヘアピンで1台がクラッシュし、優勝したオースチンヒーレーは風防のサイズが小さすぎるとして失格に。これは地元の有名なレーサーに有利に働くという疑わしい結果となった。

1300-2500ccクラスでダットサン・フェアレディがトライアンフとMGを抑えて勝利したことも、「数週間前にホモロゲーション証明書にさまざまな素晴らしい特典が追加された」ために一部で論争の的となった。

この日は1300-1600ccのツーリングカーレースで「混乱」のうちに幕を閉じた。ヴォグゾール・ヴィクターを駆るサカイ・ソウイチというドライバーは、周回を重ねるうちにメインストレートで激しく横滑りするようになり、後方のトヨタ・コロナが「必死でクラクションを鳴らし」、「ピットクルーにぶつかりそうになった」という。

観客は抗議の声を上げ、ゴールでは「かなり落ち込んでいた」サカイ氏に「殴りかかる寸前」だった。表彰台に上がった他のドライバーは嫌悪感をあらわに去っていった。スチュワードは彼を失格にしたが、なぜレース中に失格にしなかったのか? 後に、スチュワードは「他の業務」で手一杯だったことが判明した。そもそも、彼らには振る黒旗がなかった。

驚くべきことに、2日目にはさらに奇妙なことが起こった。ジャガーEタイプのドライバー、アーサー・オーウェン氏がオーバー2500ccのGTレースであまりに速かったため、ライバルたちが「レースに出るためだけに招待されたのであり、勝つためではない」として失格かリタイアを要求したのだ。彼は拒否したが、JASAは2位の横山達氏にトロフィーを渡し、オーウェン氏を章典外とした。

「日本語で『特別参加ドライバー』と刻まれたトロフィーを手渡されても、(オーウェン氏の)気持ちが少しでも和らぐかどうかは疑問だ」と当時のAUTOCAR誌は冗談交じりに書いている。

とはいえ、終わりよければすべてよし。翌1964年に再び鈴鹿を訪れたAUTOCAR誌は、「ドライビングとスポーツマンシップの水準が驚くほど向上している」と喜んだ。

記事に関わった人々

  • 執筆

    クリス・カルマー

    Kris Culmer

    英国編集部ライター
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    平成4年生まれ愛知在住。幼少期から乗り物好き。住宅営業や記事編集者といった職を経て、フリーランスとして自動車メディアで記事を書くことに。「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。

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