【スポーツカーの宝庫!】S2000、ビート、CR-ZにS-MX!一代限りで終わってしまった名車たち:ホンダ編

公開 : 2024.11.12 12:15

スポーツカーやワゴンなど、他メーカーとはどこか違う個性的なクルマを送り出してきたホンダ。それなのに(それゆえに?)一代限りで終わってしまった、魅力的なホンダ車たちをご紹介します。

他メーカーには作れないクルマ

かつてホンダスポーツカーの宝庫だった。本格オープンスポーツのS2000やコンパクトハイブリッドカーのCR-Z、ちょっと古いところでは軽自動車のビートなど、他メーカーには作れないクルマを送り出した。加えてS-MXなど、個性的なワゴンも得意とした。それなのにこれらは一代限りで終わってしまった。その理由はどこにあるのか? 一緒に考えてみよう。

左上から時計回りに、ホンダ・ビート、CR-Z、S-MX、S2000。いずれも個性が際立つ。
左上から時計回りに、ホンダ・ビート、CR-Z、S-MX、S2000。いずれも個性が際立つ。    ホンダ

ホンダS2000(1999~2009年)

1995年の第31回東京モーターショーでオープン2シーターのFR(後輪駆動車)として展示されたコンセプトカー、『ホンダSSM』の市販バージョンがS2000である。開発は上原繁氏をはじめとするNSXの開発者が担当した。

S2000の特徴はホンダとしてはS800以来28年ぶりとなるFR車であることや、オープンカーでありながら、クルーズドボディと同等以上のボディ剛性を持たせるために『ハイXボーンフレーム構造』と呼ばれるシャシーを採用し、本格スポーツカーの走りの基礎である高いボディ剛性を実現したこと。そしてフロントミドシップ配置となるパワートレインには最高出力250psを発揮し、許容回転数9000rpmというF20C型2.0L直4エンジン(前期型)を搭載したことなどだろう。

ホンダS2000(1999~2009年)
ホンダS2000(1999~2009年)    ホンダ

S2000の本領はサーキットでこそ発揮できる。絶対的な速さはもちろん、1995年当時に、これほどまでに高いボディ剛性を乗ったオープンスポーツカーはなかった。高い横Gが掛かった状態でも、専用開発の6速MTはカチカチと気持ちよいシフトチェンジが可能だ。

2005年のマイナーチェンジではエンジンが2.2L直4(242ps)のF22C型に変更され、足まわりのセッティングが若干マイルドになった。これは乗りやすさを求めた声に対応したもので、これを機にスロットルはDBW(ドライブ・バイ・ワイヤ)化された。

S2000はホンダ技研工業の創立50周年記念として企画、販売されたモデルであり、一代で終了するのは当初から決まっていたことだろう。S2000のコンセプトを受け継いだモデルが今後登場することに期待したい。

ホンダ・ビート(1991~1996年)

バブル景気の末期、ホンダからまったく新しいクルマがデビューした。それは超高級車や高額なスポーツカーではなく、『軽自動車初の2シーターミドシップオープンカー』、『価格は138万8000円(消費税含まず)』というものだった。その名はホンダ・ビート。

ビートはほぼ同じ時期に発売された軽スポーツカー、マツダオートザムAZ-1スズキカプチーノとともに、すぐに大人気となった。

ホンダ・ビート(1991~1996年)
ホンダ・ビート(1991~1996年)

量産ミドシップ車としては世界初の、フルオープンモノコックボディを採用。ボディサイズは全長3295×全幅1395×全高1175mmで、ホイールベースは2280mm。全高の低さが目につく。車両重量は760kgだ。

ミドシップに横置きされるエンジンは0.66L直3で、64psを絞り出す。レッドゾーン8500rpmの高回転型で組み合わされるトランスミッションは5速MTだ。

サスペンションは4輪独立懸架のストラット式で、軽自動車初の4輪ディスクブレーキも装備された。美しく精悍なボディデザインは、年月が経っても古さを感じさせない。パワーステアリングは装備されていないが、ステアリングは重くなく、とにかく走りが愉しいクルマだ。

今でも1万5000台以上が現存しているというビート。実質的な後継車としてはS660(2015~2022年)が該当するだろうが、コンセプトは異なる。ビートのオーナーは『ビートは一代限りのクルマ』という思いが強いことだろう。

記事に関わった人々

  • 執筆

    木原寛明

    Hiroaki Kihara

    1965年生まれ。玉川大学では体育会ノリの自動車工学研究部に所属し、まだ未舗装だった峠道を走りまくった。最初の愛車(本当は父のもの)は2代目プレリュード(5MT)。次がフルチューンのランサーEXターボ。卒業してレースの世界へと足を踏み入れたものの、フォーミュラまで乗って都合3年で挫折。26歳で自動車雑誌の編集部の門を叩き、紙時代の『AUTOCAR JAPAN』を経て、気が付けばこの業界に30年以上。そろそろオーバーホールが必要なお年頃ですが頑張ります!
  • 編集

    平井大介

    Daisuke Hirai

    1973年生まれ。1997年にネコ・パブリッシングに新卒で入社し、カー・マガジン、ROSSO、SCUDERIA、ティーポなど、自動車趣味人のための雑誌、ムック編集を長年担当。ROSSOでは約3年、SCUDERIAは約13年編集長を務める。2024年8月1日より移籍し、AUTOCAR JAPANの編集長に就任。左ハンドル+マニュアルのイタリア車しか買ったことのない、偏ったクルマ趣味の持ち主。

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