発案はデロリアン! ポンティアックGTO(1) 「元祖」マッスルカー スポーティでヨーロピアン

公開 : 2024.12.14 17:45

ジョン・デロリアン氏が生み出した元祖マッスルカー、ポンティアックGTO テンペストをビッグブロック化 スポーティでヨーロピアンなイメージ デートカーとして活躍 英編集部が2台をご紹介

中型クーペのテンペストにビッグブロック

美容整形手術を受け、スポーツカー・メーカーの工場を北アイルランドへ竣工させ、コカインの密輸疑惑で逮捕されるより遥か以前、ジョン・デロリアン氏は、ゼネラル・モーターズ(GM)にいた。ポンティアック部門の、主任技術者として。

彼の才能は確かなものといえ、同時に若者文化へ敏感だった。ホットロッド・カスタムやドラッグレースの人気を目の当たりにし、安価な高性能モデルを提供すれば、GMへヒットを導けると考えた。

レッドのポンティアック・テンペスト・ルマン GTO コンバーチブルと、ブラックのポンティアックGTO ハードトップクーペ
レッドのポンティアック・テンペスト・ルマン GTO コンバーチブルと、ブラックのポンティアックGTO ハードトップクーペ

1962年に、ポンティアックは2ドアのカタリナ・スーパーデューティ421を少量生産。スーパーストック・クラスのドラッグレースを想定し、軽量なアルミニウム製フェンダーやボンネット、穴開き加工されたフレームなどが与えられていたが、高価だった。

デロリアンが目をつけたのは、北米では中型の扱いだった、ポンティアック・テンペスト・ルマンというクーペ。326cu.in(5342cc)のV型8気筒エンジンを、フルサイズ用の389cu.in(6374cc)へ置き換えるというアイデアが実行された。

その頃のポンティアックのV8ユニットは、排気量に関わらず、エンジンブロックの外寸が同じだった。変更を加えず、テンペストのエンジンルームへ収めることができた。

スポーティでヨーロピアンなイメージ

かくして、1964年仕様として誕生したのが、ポンティアック・テンペスト・ルマン GTO。デロリアンは、フェラーリ250 GTOに影響を受けた車名ではないと説明している。だが、スポーティでヨーロピアンなイメージは狙っていたという。

ボディサイドのエンブレムへ刻まれるエンジンの排気量も、北米式の389cu.inではなく、6.5Litre。これに関して、デロリアンや関係者の意向を筆者は知らないが、欧州車を意識したものだろう。

ポンティアック・テンペスト・ルマン GTO コンバーチブル(1964年式/英国仕様)
ポンティアック・テンペスト・ルマン GTO コンバーチブル(1964年式/英国仕様)

当時のGMは、ミディアムクラスのモデルへ、330cu.in(5407cc)以上を載せない方針を掲げていた。エンジンをオプション設定とすることで、デロリアンはこの課題をかわしている。

1台目が工場をラインオフしたのは、1963年9月3日。営業部門は、初年度に5000台の販売を見込んでいたが、これは低すぎる設定だった。1964年度に売れたのは、3万2450台。生産は追いつかない状態だった。

世界初の「マッスルカー」誕生に、他メーカーは焦燥感を抱いたに違いない。クライスラーのプリマスやダッジだけでなく、同じGM内のブランドからも、ライバルに相当するモデルが追加された。

今回ご登場願ったレッドのGTO コンバーチブルも、1964年式。筆者は大のマッスルカー・ファンだが、生産初期のモデルと対面したのはこれが初めて。マッスルカー誕生60周年を祝うのに、この年式は外せないだろう。

記事に関わった人々

  • 執筆

    コリン・グッドウィン

    Colin Goodwin

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジャック・ハリソン

    JACK HARRISON

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ポンティアックGTOの前後関係

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