4気筒はオイルショックの「女神」 ロータス・エリート(1) 初代と共通点ほぼ皆無の2代目

公開 : 2024.12.15 17:45

上級グランドツアラーが目指された4シーターの2代目エリート オイルショックの女神になった4気筒エンジン 信頼性や品質を理由に評価は急低下 ブランドの重要モデルを英編集部が振り返る

初代との共通点はほぼ皆無の上級4シーター

規模が大きくなかったスポーツカー・メーカー、ロータスにとって、勇気ある挑戦といえたのが、1976年の2代目エリートだ。ウェッジシェイプのスタイリングは、同時期に誕生したエスプリへ近かったが、同社初の4シーターだった。

1957年に発売された、初代エリート、タイプ14との共通点はほぼ皆無。7割近い部品が、自社工場で生産された。

ロータス・エリート・タイプ75(1974〜1979年/英国仕様)
ロータス・エリート・タイプ75(1974〜1979年/英国仕様)

妥協のない設計は、ロータスの創業者、コーリン・チャップマン氏の哲学が反映されたもの。優雅な容姿で、素晴らしい操縦性を包んだ、上級グランドツアラーが完成していた。

オーナーが組み立てる、キット状のスポーツカーを生み出してから約20年。ラグジュアリーなクーペを求める富裕層にも訴求するモデルを生み出すまでに、ロータスは成長していた。ジャガーBMWからの乗り換えを、エリートは提案した。

当時40歳代半ばだったチャップマンは、他メーカーのグランドツアラーへ試乗し、欠けている何かを見つけた。それが秀抜な運転体験。軽さと重心の低さ、当時としてはワイドな205/60サイズのタイヤ、理想的な重量配分という組み合わせがカギだった。

バックボーン・シャシーを基礎骨格にした2代目エリートの車重は、1158kg。当時でも、4シーター・スポーツカーとしては例外的に軽かった。

オイルショックの女神になった4気筒エンジン

彼のビジネス感覚は、工学的な知見に次ぐ強みだった。ロータス・エランやヨーロッパと製造コストがさほど違わない、大きく高価なモデルが、将来的に高い利益を生むと結論を導いていた。

また、既存モデルを新たな安全基準へ合致させ続けることも簡単ではなかった。1970年代に向けた、成熟された次世代が必要だった。

ロータス・エリート・タイプ75(1974〜1979年/英国仕様)
ロータス・エリート・タイプ75(1974〜1979年/英国仕様)

当初、上級至高のグランドツアラーに不利だと思われた4気筒エンジンは、1973年のオイルショックを経て、一転して女神になった。8気筒や12気筒を積むモデルは、燃費が6.0km/Lを超えれば褒められたが、エランは9.1km/Lが主張された。

4シーターで、200km/h以上での走行をいとわず、160km/hで走るのに必要なパワーは41ps。1度の満タンで、560km以上先の目的地を目指せた。

スタイリングも、チャップマンが深く関与した部分。主任技術者のマイク・キンバリー氏を筆頭に、トニー・ラッド氏やオリバー・ウィンターボトム氏を含むチームで進められた。

ウィンターボトムが1967年にロータスへ移籍した時点では、マセラティギブリに似たスケールモデルが作られていた程度。ウェッジシェイプのシルエットで、巨大なリアガラスが与えられ、ランボルギーニ・エスパーダ並みに印象的だったとか。

「バックボーン・シャシーは、1971年に採用が決まりました。当初は明らかに揚力を生むようなデザインで、空間が限られるファストバックでした。ステーションワゴン風にし、後席のヘッドルームを確保しています」。彼が2002年の取材で回想している。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マーティン・バックリー

    Martin Buckley

    英国編集部ライター
  • 撮影

    リュク・レーシー

    Luc Lacey

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

ロータス・エリートの前後関係

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