四輪駆動による革命! アウディUrクワトロ UK版中古車ガイド(1) 売れるほど赤字が増えた?

公開 : 2025.01.05 17:45

高性能モデルへ決定的な影響を与えた、四輪駆動のアウディ 開発を率いたのはフェルディナント・ピエヒ グループBで大暴れしたスポーツ 11年間続いた生産 英編集部のアドバイスは?

フェルディナント・ピエヒが率いたクワトロ

アウディUrクワトロは、自動車のルールブックを書き換えたといっていい。オンロード前提の高性能モデルで、四輪駆動という技術を当然のものとした。

その影響力は、ブランド力にも繋がった。革新的で前衛的なイメージが定着し、市場シェアを躍進。モータースポーツとの結びつきも、色濃いものにした。

アウディUrクワトロ(1980〜1991年/英国仕様)
アウディUrクワトロ(1980〜1991年/英国仕様)

アウディ・クーペをベースに、1980年に発売されたUrクワトロ以前にも、四輪駆動の自動車は存在した。だがそれは、過酷な気象条件や荒野での走行を前提にした、実用車という傾向が強かった。

しかしアウディは、小型・軽量な四輪駆動システムを開発。この技術へ大予算で挑んだフェルディナント・ピエヒ氏率いるチームは、パワーロスの少なさを実験で示した。優れた燃費も得られると主張されたものの、積極的な運転では、驚くほど悪化したが。

これと並行して、先進的なエンジンも生み出されている。インタークーラーで吸気を冷やすターボチャージャーを、当時注目されていた直列5気筒ユニットに結合。電子制御の燃料噴射と点火システムを実装することで、力強さと好効率を両立させた。

スタイリングを担当したのは、マーティン・スミス氏。ボディと同色で塗装されたバンパーに前後のスポイラー、ブラックアウトされたフロントグリルなど、1980年代らしいまとまりにあった。

グループBラリーで大暴れ 11年間続いた生産

ちなみに英国の技術者、ハリー・ファーガソン氏は、1960年代に四輪駆動の将来性を主張している。彼は四輪駆動のフォーミュラマシンを試作し、英国の各自動車メーカーへアプローチするが、興味を示したのはジェンセンだけだった。

対してアウディは、新たに生み出した四輪駆動システム、クワトロをラリーマシンに採用。無敵といわれていた後輪駆動のフォード・エスコートを駆逐し、強さを世界中に知らしめた。

アウディUrクワトロ(1980〜1991年/英国仕様)
アウディUrクワトロ(1980〜1991年/英国仕様)

特にホイールベースを短縮したスポーツ・クワトロは、グループBカテゴリーのラリーで勝利を重ねた。だが危険性が増したことを理由に、この戦いは幕を閉じている。

量産モデルの需要は高く、初期のWR型は、トルセン式センターデフを得たMB型へアップデート。販売は1991年まで続いた。その前年の1990年には、アウディ200用の20バルブエンジンを獲得。ターボラグを短縮しつつ、パワーとトルクが増大されている。

Urクワトロの価格は、お手頃とはいえなかったが、競争力が非常に高かった。他メーカーの追従を許さなかったほど。

むしろ数が売れるほど、アウディは赤字になったといわれている。11年間にラインオフしたのは1万1500台程度で、大量に提供されたわけでもない。とはいえ、ブランドへの功績を考えれば、見事に報われた投資といえるだろう。

記事に関わった人々

  • 執筆

    マルコム・マッケイ

    Malcolm Mckay

    英国編集部ライター
  • 撮影

    ジェームズ・マン

    James Mann

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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