さようなら、Bowさん【長尾循の古今東西モデルカーよもやま話:第2回】

公開 : 2024.12.25 17:05

元モデル・カーズおよびカー・マガジン編集長である長尾循による、古今東西モデルカーにまつわるよもやま話です。第2回は11月17日に亡くなられた、長年カー・マガジンの表紙絵などを描かれたBowさんへの想いを語ります。

巨星墜つ

Bowさんが亡くなりました。2024年11月17日未明のこと。享年78歳。長年Bowさんの原画を管理してきたMさんからの第一報でした。いつかこの日が来ることは理屈では理解していましたが、かといって『人は誰しも寿命があるからしかたない』などと冷静に受け入れることはできず、連絡を受けた後、ひとりで泣きました。

本名は池田和宏さんですが、自動車画家としての名前は『Bow。』。学生時代のあだ名『ボクちゃん』がなまって『ボーちゃん』となり、描いた絵の隅に『by Bow』とサインを入れたのが名前の由来。

2024年11月17日亡くなられた、自動車画家Bowさん。手に持つのはカー・マガジン表紙絵の原画。
2024年11月17日亡くなられた、自動車画家Bowさん。手に持つのはカー・マガジン表紙絵の原画。    長尾循

ちなみに1980年に企画室ネコから出版されたイラスト作品集『Bowの自動車博物館』の日本語表記は『ボウ』となっていますが、1984年に二玄社から出版されたBowさんのエッセイ集『毎日が単独飛行』の文中表記では『ボー』となっています。カナ表記のブレはさておき、ここでは『Bowさん』の表記で参りたいと存じます。

当初はイラストレーターという肩書きでお仕事をされていましたが、画業の後半には自動車画家と名乗るようになり、その作品も『イラスト』ではなく『自動車画』と呼ぶようになっていきました。

Bowさんとの出会い

1980年代初頭、カー・グラフィック誌の後半のモノクロページ『RAMBLE SEAT』コーナーの扉に、毎月短い手書きの文章と共に描かれていたペン画。おしゃれでかっこよく、クルマに対する温かい想いにあふれたその絵は、当時まだデザイン専門学校の学生だった自分にとって大きなエネルギー源でした。そしてまた、1978年から始まった企画室ネコのムック『心に残る名車の本シリーズ』や、その後創刊されたスクランブル・カー・マガジン誌の表紙を飾るようにもなったBowさんの絵。

ずっとカー・グラフィック読者だった自分がスクランブル・カー・マガジンも併読するようになったのは、やはりBowさんの絵の魅力に惹かれてのことでした。

Bowさんの絵は、カー・グラフィックやカー・マガジンの誌面、ムックなどを通じて愛されてきました。
Bowさんの絵は、カー・グラフィックやカー・マガジンの誌面、ムックなどを通じて愛されてきました。    長尾循

本格的なモータリゼーションが始まった自分の少年時代。『クルマ好き』といえば世間の認識は生沢徹や式場荘吉に代表される、庶民の感覚とは次元が違うクルマエリートな世界か、粗野でおっかない暴走族的な世界か、というものだったように思います。しかし、あたかも映画のワンシーンの様なBowさんの絵を見ていると『クルマエリートじゃなくても、喧嘩が苦手でも、クルマが好きでいいんだ』と心の安寧が得られたのです。

記事に関わった人々

  • 執筆 / 撮影

    長尾循

    Jun Nagao

    1962年生まれ。企画室ネコ時代を知る最後の世代としてモデル・カーズとカー・マガジンの編集に携わったのち定年退職。子供の頃からの夢「クルマと模型で遊んで暮らす人生」を目指し(既に実践中か?)今なおフリーランスとして仕事に追われる日々。1985年に買ったスーパーセブンにいまだに乗り続けている進歩のない人。
  • 編集

    平井大介

    Daisuke Hirai

    1973年生まれ。1997年にネコ・パブリッシングに新卒で入社し、カー・マガジン、ROSSO、SCUDERIA、ティーポなど、自動車趣味人のための雑誌、ムック編集を長年担当。ROSSOでは約3年、SCUDERIAは約13年編集長を務める。2024年8月1日より移籍し、AUTOCAR JAPANの編集長に就任。左ハンドル+マニュアルのイタリア車しか買ったことのない、偏ったクルマ趣味の持ち主。

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